今年も、一年があっという間に過ぎてしまいましたが、特に12月は新橋演舞場公演で東海道を行き来しているうちに月日が流れてしまった感があります。
朝のさんぽで通りかかった春日神社と鎮国神社にも門松が飾られていました。
春日神社桑名宗社
桑名鎮国守国神社
さんぽから帰って、「おせち」の「煮物」にとりかかってとりあえずお重を二段詰めました。
蓮根、牛蒡のきんぴら、金時人参、蒟蒻、田作り、お多福豆、昆布巻、里芋、焼豆腐、椎茸
明日は、伊達巻やだし巻き玉子を作って、ブリの照り焼き、ローストビーフ、海老や焼き豚など孫たちの好きなものなどをお重に詰めたらお正月の仕度が出来上がりです。
さて、今年ラストのブログの記事。これを年内にアップしないと2015年は終わらない?
小吉さんと麟さんを探すさんぽ径~両国界隈「ぶら春日」
23日の千穐楽が終わって、翌日のサンクスコンサートは、午後2時開演。「お出迎え」の頃までには十分に時間があるので、その前に両国に足をのばしました。
23日に宿泊したのは門前仲町のホテルです。十年近く前になりますが、門前仲町は末娘が一年間ほど住んでいたこともあって馴染みがあります。ここから都営大江戸線で両国まではほんの三駅ほどで10分もかかりません。
ホテルを8時ちょっと前に出て、駅に向かう途中に、こんな史跡の案内板がありました。「佐久間象山砲術塾跡」。
説明書きに「勝海舟も入門した」とあります。ちなみに海舟の妹(小吉さんの娘)の順は象山に嫁いでいます。(*「家系図」では、小吉が子吉となってます…)
両国駅を降りて、地図をたよりに約1時間半ほど「小吉と海舟」の面影をたずねて、朝のさんぽをしてきました。歩いた道筋に沿って「れぽーと」します。
さんぽエリアは、お芝居にも出てきた隅田川にかかる両国橋の東詰あたりから東の錦糸町方向
「気ままにてござ候」の舞台になったのは、回向院から本所松坂町の吉良邸跡界隈
回向院で舞台の成功祈願された時のニュースより
芥川龍之介生育の地~吉良邸跡~勝海舟生誕の地
芥川龍之介もこの本所で育ち、海舟(麟太郎)生誕地のすぐそばの両国小学校に通ったそうです。
吉良邸跡も両国小学校のすぐ裏手
矢頭右衛門七 清水一学
吉良邸のすぐ横に「鬼平犯科帳」長谷川平蔵の幟も…
いよいよ、麟太郎生誕の地へ…
現在は両国公園となっている男谷邸跡。その公園前のマンションに咲いてた大輪の冬バラ
勝海舟生誕地(男谷邸)跡 現在は両国公園(墨田区両国4丁目25番) 生誕~二歳頃まで
生誕の地の由来碑
こちらは、「気ままにてござ候」初日が開いた日の12月1日は昼の部だけだったので終演後、宿泊した浅草、吾妻橋の向こう側、墨田区役所の敷地内にある勝海舟の立像に、ご挨拶してきました。
勝海舟像
所在地 墨田区吾妻橋1-23-20 (墨田区役所)
建立の記
勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政6年(1823)1月30日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治32年(1899)1月19日(発喪は21日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。
勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京都発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
海舟生誕180年 平成15年(2003)7月21日(海の日) 墨田区長 山昇
勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京都発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
海舟生誕180年 平成15年(2003)7月21日(海の日) 墨田区長 山昇
勝海舟は、文政六年(一八二三)一月三十日、本所亀沢町の父小吉の実家である男谷家に生まれその後、両親と共に本所界隈を転々とし、八歳で入江町の旗本岡野孫一郎屋敷内に転居。弘化三年(一八四六)に赤坂に転居するまでは本所入江町で暮らしたそうです。
勝海舟旧居跡案内板 旧岡野邸、現在は「すみだふれあいセンター」
勝海舟揺籃の地の碑 坂田建設前(墨田区緑四丁目二十一番)
「すみだふれあいセンター」の北側に京葉道路が走っていて、その交差点を渡ると坂田建設という看板の建物があります(緑4-21-2)この建物の玄関に「勝海舟揺籃の地」という碑が立っています。揺籃というのは「ゆりかご」のことですが、生誕地は両国公園(男谷邸跡)ですから、ここはその後、勝一家が転居した岡野孫一郎の邸に近いということで、この石碑を建てたのでしょうか?早朝だったからか、どなたも付近にいらっしゃらなかったので石碑の由来は御訊ねできませんでしたが…
以下、勝小吉転居歴一覧。~「すみだの大名屋敷」HPより~
http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA024/guide/g-28.html
http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA024/guide/g-28.html
勝小吉年表と転居歴 男谷家の系図
1歳 享和2年(1802) 男谷平蔵の三男として深川油堀で生まれる。
7歳 文化5年(1808) 旗本勝家へ養子縁組、祖母と娘を男谷家に引き取る。
9歳 文化7年(1810) 男谷家、本所亀沢町に転居
22歳 文政6年(1823) 麟太郎生まれる。
24歳 文政8年(1825) 本所割下水北の旗本天野左京敷地内に住む。
26歳 文政10年(1827)本所割下水南、旗本山口鉄五郎敷地内に転居。
30歳 天保2年(1831) 本所入江町の旗本岡野孫一郎の屋敷内に転居。
37歳 天保9年(1838) 隠居、麟太郎家督相続16歳
40歳 天保12年(1841)蟄居謹慎を命ぜられ虎ノ門溜池脇さざえ尻(鶯坂)旗本保科榮次郎の屋敷内に転居。この時、麟太郎は19歳
49歳 嘉永3年(1850) 小吉死去
勝小吉
本名 勝左衛門太郎惟寅。旗本男谷平蔵の三男(妾腹)に生まれ、7歳で禄高40俵の貧乏御家人勝家の養子となる。
14歳の時、養家の祖母との確執から出奔。4ヶ月に及ぶお伊勢回りの乞食旅を経て帰宅。その後、無役から役付きになろうと運動するが果たせず、剣(直新影流)の鍛錬と喧嘩、吉原通いに明け暮れる。21歳で再び出奔。甥の新太郎(後の剣聖男谷精一郎)に説得され帰宅するが、父によって丸3年間座敷牢に押し込められる。出牢後、再び役付きの運動をするが実現せず、生活費は処道具の売買、刀の目利きなどをして自ら稼ぐこととなる。その後、深川本所の顔役のような存在となり、生涯無役として市井に埋もれ、37歳で隠居、夢酔と号す。嘉永3年49歳で死去。息子麟太郎は後の勝海舟。娘のお順は佐久間象山の妻。
14歳の時、養家の祖母との確執から出奔。4ヶ月に及ぶお伊勢回りの乞食旅を経て帰宅。その後、無役から役付きになろうと運動するが果たせず、剣(直新影流)の鍛錬と喧嘩、吉原通いに明け暮れる。21歳で再び出奔。甥の新太郎(後の剣聖男谷精一郎)に説得され帰宅するが、父によって丸3年間座敷牢に押し込められる。出牢後、再び役付きの運動をするが実現せず、生活費は処道具の売買、刀の目利きなどをして自ら稼ぐこととなる。その後、深川本所の顔役のような存在となり、生涯無役として市井に埋もれ、37歳で隠居、夢酔と号す。嘉永3年49歳で死去。息子麟太郎は後の勝海舟。娘のお順は佐久間象山の妻。
舟木一夫特別公演 巷談・勝小吉~気ままにてござ候
作:齋藤雅文 演出:金子良次
パンフレットより一部転載させていただきます
愉快、痛快なお歳暮を 作 齋藤雅文
~小吉には武士の血は流れていません。祖父は盲目で、杖一本を頼りに新潟から出て来て、検校という位まで登りつめ、金融で財を成した人です。子福者だった祖父は、子供たちそれぞれを身の立つようにし、小吉の父には三万両で御家人の株を買って与えました。小吉はその男谷の家から、勝の家へ養子に入ったのです。
江戸時代には侍の身分を金で買ったり、ふさわしい跡継ぎがいないので、養子をとって家を存続させたりという「合理的」な話が珍しくありません。小吉は私たちが想像する以上に、忠義や義理に縛られない、現代の我々に近い自由な感覚の持ち主だったと思われます。随筆「夢酔独言」で自分の半生を振り返り、「私のように生きてはいけない。孫子の代に教訓として伝える」と書いてはいますが、その実、自由気ままに生き、愉快、痛快な人生だったこをと誇らしげに披瀝しています。~
江戸時代には侍の身分を金で買ったり、ふさわしい跡継ぎがいないので、養子をとって家を存続させたりという「合理的」な話が珍しくありません。小吉は私たちが想像する以上に、忠義や義理に縛られない、現代の我々に近い自由な感覚の持ち主だったと思われます。随筆「夢酔独言」で自分の半生を振り返り、「私のように生きてはいけない。孫子の代に教訓として伝える」と書いてはいますが、その実、自由気ままに生き、愉快、痛快な人生だったこをと誇らしげに披瀝しています。~
パンフレットに記載の解説文「小吉と夢酔独言」を書かれた大口勇次郎氏の著書『勝小吉と勝海舟 ―「父子鷹」の明治維新』(日本史リブレット人)を読みました。主に海舟(麟太郎)についての記載ですが、小吉の生い立ちからその生涯がコンパクトにまとめられています。
~勝小吉と勝海舟は、ともに閉塞した幕末江戸の下級旗本の世界に生まれた。小吉は脱出できなかったが、その代わり自叙伝のなかでその生活ぶりを描写してくれた。海舟は、黒船来航を機に、みずから閉塞社会に風穴を開けて飛びだすことに成功し、幕末の陸軍総裁、明治国家の伯爵にまでのぼりつめた。一八〇二年に生まれた親の小吉と、一八九九年に没した子の海舟が、二人して明治維新をはさむ十九世紀をフルに生きたストーリーである。~(カバー記載文)
大口勇次郎
(1935年8月~ )日本の歴史学者、お茶の水女子大学名誉教授。近世社会史、女性史専攻。