先日のバレンタインデーに、私のブログのテーマ曲としてもお借りしている「れんげ草」(舟友のkazuyanさんの作品)の動画をアップしましたが、それと関連して「れんげ草」という作品が生まれる前段とも思われる経緯について知ることができる資料のことを少し記させていただきます。
私にとってのバイブル「青春賛歌」(大倉明著)の、巻末に、舟木さんの芸能活動および、主たるプライベートの出来事などの年表が付いています。1979年あたりから1990年頃までのおよそ十数年間は、一年間の活動がほんの2、3行だったりしています。舟木さん曰く「寒い時期」ということになります。そして、今回、記事にした「伊豆の踊子」という舞台作品は、「青春賛歌」にも、記載されていません。でも、舟木さんが、ヒロインである踊子・薫の兄の役で舞台に立たれたということだけは聞いたことはあるので、ずっと気になっていました。
そこで、いつもお世話になっている大先輩の舟友さんに「伊豆の踊子」について何か資料をお持ちであれば…とおたずねしてみました。さすがです、公演のパンフレットを大切に保管してくださっていましたので拝見させていただくことができました。実は、もうそれもほぼ一年ほど前のことになります。何かの機会があれば、ブログで…と思っていましたが、なかなか、チャンスがなくて今になってしまったというワケです。でも、おそらくほとんどのファンの方がお手元に資料をお持ちではないと思いますので遅れ馳せながら、舞台写真などはないのですが、パンフレットの内容など、ご紹介させていただきます。
文芸画集伊豆の踊子 川端康成:文 /根岸敬:画 主婦の友社 1978.4 (表紙/裏表紙)
薫のテーマとして作られた「れんげ草」~ここから今、歌われている「れんげ草」へ…
「WHITE」の発売が1982年6月、「WHITEⅡ」の発売が1983年4月。これらの2つのアルバムは、その後CD復刻盤として1995年の4月に再発売されていますが、「WHITEⅢ」は1998年5月になって初めてCDで発売されました。「れんげ草」はこの「WHITEⅢ」に収録されていますから、舟木さんが「伊豆の踊子」の舞台のテーマ曲として最初に作られた1982年から推敲を重ねた上で16年目を経た後にオフィシャル音源として世に出たということになるんですね。
では再び、「れんげ草」を…
れんげ草 作詩・作曲:上田成幸
愛する人の胸で
夜明けの雲をみたい
まるで初恋の 少女のように願う
恋手紙(こいぶみ)のひとつさえ
書けぬまま
夜明けの雲をみたい
まるで初恋の 少女のように願う
恋手紙(こいぶみ)のひとつさえ
書けぬまま
い・の・ちを花びらに
宿せるものならば
あなたのふるさとの
小さな れんげ草
宿せるものならば
あなたのふるさとの
小さな れんげ草
あなたがもしも・・もしも
ふりむく時が来たら
かたく瞳(め)をとじて そっと髪をほぐし
美しく見えるよう
祈るだけ
ふりむく時が来たら
かたく瞳(め)をとじて そっと髪をほぐし
美しく見えるよう
祈るだけ
い・の・ちを花びらに
宿せるものならば
あなたのためにだけ
こぼれる れんげ草
宿せるものならば
あなたのためにだけ
こぼれる れんげ草
い・の・ちを花びらに
宿せるものならば
あなたの夢に咲く
ほのかな れんげ草
宿せるものならば
あなたの夢に咲く
ほのかな れんげ草
「キャスト」をご覧になるとファンの皆さんなら、「あら?」と、何かお気づきになったことと思います。舟木さんが演じたヒロイン薫の兄の名が「栄吉」…これは奇しくも舟木さんのお父様のお名前です。そして、さらに驚いたことには、「伊豆の踊子」の原作者、言わずと知れたノーベル賞作家・川端康成氏ですが、川端氏の実父のお名前も「栄吉」なのです。お父上の名前を登場人物につけたということは栄吉という人物への特別な思い入れがあったのかな?と想像してしまいます。そういえば、舟木さんが若い頃のテレビ映画「雨の中に消えて」の中の舟木さんの役名も村田「栄吉」でした。さらに、映画「北国の旅情」でも、舟木さんの役名が上村英吉ですから、字は違いますが、ここでも「えいきち」なんですね(笑)
伊豆の踊子 東京読売ホール 1982年4月20日~23日 劇団エフ・エイプロデュース公演
一幕のあらすじ
旧制一高生北川啓介(19)は学校をさぼってぶらりと伊豆の旅に出た。大正十五年十一月一日のこと、彼は山深い湯ヶ島の湯本館にとまっていて旅芸人の一行を見かけ、踊子薫(13)を知った。初々しい出会いだった。
天城峠北口の茶屋で薫に再会した北川は心をときめかすが、薫はこの旅の末、下田についたら一行からはなれて芸者に売られる運命にあった。薫の兄栄吉が「今よりはましな妹の人生」としてえらんだ道である。
が、栄吉の女房千代子とその母勝子は反対し、勝子は”身分ちがいを承知で、薫の北川への初恋を成就させたいと願う。
道連れになって旅芸人一行の生活ぶりを知るにつけ、北川は踊子が汚れた夜を送る女かと思い悩む。だが、川むこうのの共同湯から素裸のままとび出して両手をふる薫の子どもっぽさに彼の心は洗われる。そして、二人の間には、幼く淡くひかえ目ながらも熱いものが交流する。
二幕のあらすじ
旅をつづけ、たがいの身の上を語りあって、北川と薫は思いを深めあう。
「ほんとうにいい人ね。いい人はいいね」
はずんだ調子で薫が千代子にいう。立聞いて、それが自分のことと知った北川の心は、青く晴れた伊豆の秋空のようにさわやかだった。旅が、暗かった彼の性格までもかえてくれたと思った。
「ほんとうにいい人ね。いい人はいいね」
はずんだ調子で薫が千代子にいう。立聞いて、それが自分のことと知った北川の心は、青く晴れた伊豆の秋空のようにさわやかだった。旅が、暗かった彼の性格までもかえてくれたと思った。
だが、薫の悲劇的な運命は確実にせまっていた。東京で一流の芸者にしてやろうとする栄吉の思惑ははずれて、どこの色町に売り飛ばされるかわからない状況になった。
意を決した栄吉は、薫を売ることをやめ、体をはって口入れ屋との約束を破り、北川と結ばせてやることにする。
だが、栄吉や薫のせつない心を理解するには、北川はあまりにも若く、なすすべを知らなかった。兄を思う薫の心も乱れた。栄吉の必死の願いもむなしく、下田港では、北川と薫の悲しい別れが待っていた。
意を決した栄吉は、薫を売ることをやめ、体をはって口入れ屋との約束を破り、北川と結ばせてやることにする。
だが、栄吉や薫のせつない心を理解するには、北川はあまりにも若く、なすすべを知らなかった。兄を思う薫の心も乱れた。栄吉の必死の願いもむなしく、下田港では、北川と薫の悲しい別れが待っていた。
「伊豆の踊子」の栄吉について
24歳。踊子の兄で旅芸人。旅芸人たちは大島の波浮港からやって来た。栄吉は東京で、ある新派役者の群に加わっていたことがある。実家は甲府にあり、家の後目は栄吉の兄が継いでいる。幼い妹にまで旅芸人をさせなければならない事情があり、心を痛めている。大島には小さな家を二つ持っていて、山の方の家には爺さんが住んでいる。
ここでも、舟木さんと「新派」は、よくよく、深いご縁があるのでしょうか。栄吉は過去に新派の役者であったという設定になっています。
~以下「伊豆の踊子」原作より(川端康成著)~
栄吉は、東京である新派役者の群にしばらく加わっていたとのことだった。今でも時々大島の港で芝居をするのだそうだ。彼の荷物の風呂敷から刀のさやが足のようにはみ出していたのだったが、お座敷でも芝居のまねをしてみせるのだといった。柳行李の中はその衣装やなべ茶碗なぞの世帯道具なのである。
「わたしは身をあやまった果てに落ちぶれてしまいましたが、兄が甲府でりっぱに家の跡目を立てていてくれます。だからわたしはまあいらないからだなんです。」
「わたしは身をあやまった果てに落ちぶれてしまいましたが、兄が甲府でりっぱに家の跡目を立てていてくれます。だからわたしはまあいらないからだなんです。」
おまけ…です
作者である川端康成が「伊豆の踊子」について次のように述べています。
(「一草一花」より、一部抜粋)
「伊豆の踊子」の作者であること
「伊豆の踊子」の作者であることを、幸運と思うのが素直であるとは、よくわかっている。それになにか言うのはひがごころであろう。
「伊豆の踊子」のように「愛される作品」は、作家の生涯に望んでも得られるとはかぎらない。作家の質や才だけでは与えられない。「伊豆の踊子」の場合は、旅芸人とのめぐりあいが、私にこれを産ませてくれた。私が伊豆に旅をし、旅芸人が伊豆に旅をしていて、そしてめぐりあった。このめぐりあいが必然であったか、偶然であったか、この問いかけは人間の刻々の生存に問いかけるのにひとしく、人間の一生に問いかけるのにひとしく、私の答えは定まらない。偶然であって、必然であったとしてもいい。しかし、私が「伊豆の踊子」を書いたことによって、そのめぐりあいが必然のことであったかのような思いは、私に強まって来てはいないだろうか。「伊豆の踊子」の作者とされ続けての四十年が、私にそういう風に働きかけてはいないだろうか。~中略~齢七十になって、四十年前の「伊豆の踊子」を断ち切ろうとしてもゆるされないのみか、この小篇からいまだにすくなからぬ恩恵を受けつづけていることは否めない。見知らぬ読者から、「伊豆の踊子」の踊子の墓はどこにあるかと問われたりすると、天城越えの道はすでに長年「伊豆の踊子」の歌枕になっていることも思われて、よろこびやなぐさめとは逆の感情に沈みこむのは、私がなにかの恩を知らないでさからうことなのだろうか。
「伊豆の踊子」のように「愛される作品」は、作家の生涯に望んでも得られるとはかぎらない。作家の質や才だけでは与えられない。「伊豆の踊子」の場合は、旅芸人とのめぐりあいが、私にこれを産ませてくれた。私が伊豆に旅をし、旅芸人が伊豆に旅をしていて、そしてめぐりあった。このめぐりあいが必然であったか、偶然であったか、この問いかけは人間の刻々の生存に問いかけるのにひとしく、人間の一生に問いかけるのにひとしく、私の答えは定まらない。偶然であって、必然であったとしてもいい。しかし、私が「伊豆の踊子」を書いたことによって、そのめぐりあいが必然のことであったかのような思いは、私に強まって来てはいないだろうか。「伊豆の踊子」の作者とされ続けての四十年が、私にそういう風に働きかけてはいないだろうか。~中略~齢七十になって、四十年前の「伊豆の踊子」を断ち切ろうとしてもゆるされないのみか、この小篇からいまだにすくなからぬ恩恵を受けつづけていることは否めない。見知らぬ読者から、「伊豆の踊子」の踊子の墓はどこにあるかと問われたりすると、天城越えの道はすでに長年「伊豆の踊子」の歌枕になっていることも思われて、よろこびやなぐさめとは逆の感情に沈みこむのは、私がなにかの恩を知らないでさからうことなのだろうか。
「伊豆の踊子」という、大抵の日本人なら知っている「名作」に対する川端康成自身のいくらか複雑な想いを綴った文面を読んで、私は、ふと「高校三年生」という、これまた大抵の日本人なら誰もが知っている「名曲」に舟木さんご自身が寄せる想いに、どこか共通するものが、あるような気がしました。「伊豆の踊子」にも、「青春」という時空間がその背景に流れています。もちろん「高校三年生」は「青春」そのものを歌ったものです。「青春」という特別な季節を彩る清らかさ、切なさのようなものは、いつの時代も万人の胸に、甘やかで同時にほろ苦い想い出と共に深く刻み込まれるがゆえに強いインパクトをもって、文学作品ならいつまでも読み継がれ、流行歌なら永く歌い継がれていくというエネルギーのようなものを蓄えているのかもしれません。