コロシート 舟木一夫/歌のプリンス(1968年8月発行)
連載 その7(上)
日本のクロスビー・シナトラになれ!
~「高校三年生」から「夕笛」まで―映画にみる舟木一夫の魅力を分析~ 隅田喬太郎
~「高校三年生」から「夕笛」まで―映画にみる舟木一夫の魅力を分析~ 隅田喬太郎
(少し長めの文の記事なので上下、2回に分けてご紹介します。)
「高校三年生」で故郷に錦
舟木一夫さんの出演映画リストに、ざっと目をとおしてみてビックリした。
三十八年秋に封切った「高校三年生」(大映)から、四十三年の正月に公開を予定される「君に幸福を・センチメンタルボーイ」と日活のオールスターもの「花の恋人たち」をあわせると、じつに二十三本の作品に出演している。
この間、わずか五年弱。本職の映画俳優も顔負けの活躍ぶりだ。そのうえ、そのほとんどが、製作会社にとって、その年の興収ベスト・テンに入るだけの実績をあげているのだからアッパレというよりあるまい。
そこで、舟木クンがそれまで歩んできた、映画での活躍ぶりを、もう一度ふりかえってみることにしよう。
三十八年秋に封切った「高校三年生」(大映)から、四十三年の正月に公開を予定される「君に幸福を・センチメンタルボーイ」と日活のオールスターもの「花の恋人たち」をあわせると、じつに二十三本の作品に出演している。
この間、わずか五年弱。本職の映画俳優も顔負けの活躍ぶりだ。そのうえ、そのほとんどが、製作会社にとって、その年の興収ベスト・テンに入るだけの実績をあげているのだからアッパレというよりあるまい。
そこで、舟木クンがそれまで歩んできた、映画での活躍ぶりを、もう一度ふりかえってみることにしよう。
”赤い夕陽が 校舎を染めて…”清新で、こころよい詩とメロディ(丘灯至夫・遠藤実)でつづられたおなじみの「高校三年生」で歌謡界にさっそうと舟木クンがデビューしたのが、昭和三十八年六月五日。このレコードは、売れに売れ、なんと百万枚を軽くオーバーした。テレビも、雑誌も、ブロマイド店も、ツメ襟スタイルの舟木クンのあの笑顔の洪水で、突然の学園ブームをまきおこした。
このブームに、映画界も、ほおっておくはずがない。さっそく、大映が名乗りをあげ、舟木一夫主演だ一作「高校三年生」がクランクインした。
ロケ地も、舟木クン誕生の地、尾張一宮市周辺でおこなわれ、まさに舟木一夫故郷に錦を飾るという光景が随所に展開された。郷土愛の意識が強い、中京っ子の心をとらえて、ものすごい野次馬が集まり、、ロケはしばしば中断されるほど。高田美和、倉石功など若手スターを配したこの作品は、いとも楽しい青春ドラマに仕立てあげられた。
「君たちがいて…」チョコがいた。
それまで”歌謡映画の日活”と自負していた日活が、そんなありさまを、ただ指をくわえて見ているわけがない。「お次は、わが社へどうぞ…」と、強引にくどいて、つづく舟木クンの学園ソング「学園広場」「仲間たち」「あゝ青春の胸の血は」とやつぎばやに、舟木クンをスクリーンにおくりこんだ。
その間にも、舟木クンの後援会役員で、読売巨人軍の応援団長を自称する関矢文栄氏のセンで、東宝「ジャイアンツ・勝利の旗」にチョイ役ながら特出している。ONはじめ、巨人のスター選手と共演し、話題を呼んだ。ここまでは、ごくスンナリと、人気歌手舟木クンの映画出演は順調にいった。
ところが、そのつぎの東映での仕事が、ゴシップに飢えるマスコミの好餌にさらされるハメになった。
三十九年の、春から夏にかけて、舟木クンは日本の作品を東映で撮った。
三十九年の、春から夏にかけて、舟木クンは日本の作品を東映で撮った。
「君たちがいて僕がいた」と「夢のハワイで盆踊り」がそれだ。
ともに、本間千代子との共演だったが、これが事件の発端だった。人なつっこい本間が、舟木クンにベタベタしすぎるので、ファンがやきもちをやいているとある週刊誌があおった。これがキッカケで、二人の間に、一時的にしろ、へんなヒビが入った。人呼んで”チョコベタ事件”がそれだが、事件の真相はなんのことはない、週刊誌の苦し紛れのデッチあげに近いゴシップがもとなのだから、バカをみたのはファン当事者だ。
可愛そうに、せっかく”夢のハワイ”までロケしながら、半ノイローゼ気味で、ユーウツな思いをしたのは舟木クンと本間クン。まったく、人さわがせな事件ではあった。
最近では、二人ともオトナになったせいか、このことを言うと、かえって懐かしげに笑い出す。思春期スターのほほえましい青春のエピソードってわけだが、その当時は、二人とも、真剣に悩んだものだ。
このあと、舟木・本間コンビは、ついぞスクリーンでみることが出来なくなったのは、淋しいかぎりだ。
連載 その7(下)につづきます