2015 シアターコンサートin新歌舞伎座 5月29日/30日 その1 の続きです。
一部が終わって30分間の休憩のあと二部の「演歌の旅人~船村徹の世界」の報告に入ります。
濃紺というか深い藍色というか子どもの頃に使ったクレパスの群青色(ぐんじょういろ)みたいな色
合いのスリーピース。胸の開いたシャツは白、ペンダント、胸ポケットはモノトーンのチーフ。
二部 演歌の旅人~船村徹の世界
舟木さんのトークを中心にコンサートの模様をお伝えします。
ピンク文字は舟木さんのトーク部分です。
舟友さんが、せっかくのプレゼントのメモ帳を惜しげもなくその場で分けて下さいました、太っ腹ぁ!大切なものなのに感謝です↓
思い出したんだとさ
逢いたく なったんだとさ
いくらすれても 女はおんな
男心にゃ 分かるもんかと
沖の煙を 見ながら
ああ あの娘が泣いてる波止場
これは「浮かれ節」と僕は呼んでます。詩は悲しいんですけどメロディーは陽気。
昨年は遠藤実スペシャル、今回は船村徹先生の特集、お二人の違いはなにか…あえて言うなら、プロの歌い手はみんな、遠藤先生と比べて、船村先生の曲は「むつかしい」と言います。まぁ、歌い手が気楽にやればいいんですが…悲しい歌を思いっきり悲しく唄っちゃうと聴いてるお客さんの方も(沈
んだ感じのポーズ)こうなっちゃうから歌い手は「中和」するという意味で…
粘りのあるちょっと重い曲も歌い手が気楽に唄えばいいということを「中和する」と表現なさった舟
木さん、さすが半世紀のキャリアだと得心してしまいました。
船村先生は、高野公男という方との出逢いがなければ、今の作曲家としての成功はなかっただろうとおっしゃってます。高野さんを一生の友と決めて、失くなってから60年間、毎年御命日には茨城にあるお墓に行っていらっしゃる… 僕らもわかるんですが、青春時代に一緒に仕事をした仲間というのは学生時代の同級生とは違う特別の想いがあるんですね。
一曲だけ石本先生の詩ですが、最初に並べたのはその高野公男さんの詩の作品です。
泣けた 泣けた
こらえきれずに 泣けたっけ
あの娘と別れた哀しさに
山のかけすも鳴いていた
一本杉の 石の地蔵さんのよ 村はずれ
おふくろも親父も みんな達者だぜ
炉端かこんで いつかいつしか
東京の お前達二人の話に
昨夜も更けたよ 早くコ 早くコ
田舎へ 帰ってコ
東京ばかりが なんでいいものか
好きならば一緒に 連れてくるがいい
どんな娘か おらも兄なら見たいもの
妹も嫁こにきまって今年は行くだに
早くコ 早くコ
二人で 帰ってコ
幼なじみも 変わりゃしないよ
ここで虫のすだく音(ね)…下記の詩の中に出てくる「こおろぎ」なのでしょうか
船村先生の語りとギターの爪弾きが胸を打ちました。
~船村先生の語り~
友よ 土の中は寒いのだろうか
友よ 土の中には夜があるのだろうか
もしも 寒いのならば
俺のぬくもりをわけてあげたい
もしも 夜があるのならば
俺の手で灯りをともしてやりたい
友よ 俺の高野よ
こおろぎの よちよち登る 友の墓石
船村先生の朗読はこちらで少しだけ試聴できます↓
amazon 「男の友情」
男の友情 作詩:高野公男 船村先生の歌唱が聴けます
*オリジナルのシングルレコードは、昭和31年発売の青木光一さん歌唱でした。
昨夜(ゆうべ)も君の 夢見たよ
なんの変りも ないだろね
東京恋しや 行けぬ身は
背のびして見る 遠い空
段々畑の ぐみの実も
あの日のまゝに うるんだぜ
流れる雲は ちぎれても
いつも変らぬ 友情に
東京恋しや 逢いたくて
風に切れ切れ 友の名を
淋しく呼んだら 泣けて来た
黄昏赤い丘の径
田舎の駅で 君の手を
ぐっとにぎった あの温み
東京恋しや 今だって
男同士の 誓いなら
忘れるものかよ この胸に
抱きしめながら いる俺さ
舟友さんの29日夜の部の花束
船村先生は、このあたりを「ふるさと演歌」と表現なさってますね。時代を感じますね。
鼻唄で、さきほど唄った「早く帰ってコ」の曲をなぞって、「♪今年も行くだに」と唄ってみてから「佃煮ではない…(笑)」このダジャレわかった人、どのくらいいるんだろ?
このブロックのラストの「男の友情」があまりにもシンミリして客席がシーンとなったので「中和」なさったのかもですが…
船村先生の言葉は独特の訛りがあって、どうして直さないんですかって聞いたらラジオとか聞いてる
人がああ、この人は栃木の人なんだなぁ…とふるさとを思い出すだろ…と
お酒もだいぶ弱くなりましたが80過ぎてもキツイ葉巻を吸ってました。何を言っても「暖簾に腕押し」の人ですから…
「どうせひろった恋だもの」…初めて先生にお会いした時にこの歌が大好きですと言ったら「ずいぶんませたのが好きなんだね」…船村先生ッぽい訛りで…と言ってました。船村先生の世界をアレコレ説明する必要はないんですが、ひとこと申し上げると、ものすごい守備範囲が広いんです。
ここは船村演歌の正統を…
おんなの宿 作詩:星野哲郎
(大下八郎/昭和39年)
涙あふれて はり裂けそうな
胸を両手で 抱きしめる
みえないの みえないの
背のびをしても
あゝ あの人は 行ってしまった
からまつ林
矢切の渡し 作詩:石本美由起
(ちあきなおみ/昭和57年)
「矢切の渡し」はちあきなおみという人のために書かれた曲。後に細川君が歌いたいと言って、それがヒットしてその時の船村先生のコメントが面白かった。
ちあき君のは手漕ぎの舟、細家君のはモーター付きの船…(笑)
船村先生は演歌ばっかりかとお思いになると思うんですが幅が広いというかめちゃくちゃバリエーションがあるんですね。
ここで並べた2曲は船村先生の中では異色です。最初の「悦楽のブルース」はどこがいけないかわか
らないんですが放送禁止になっちゃった。島和彦さんが唄ったんですが、デビュー曲なのに気の毒で
したね。タイトルがいけなかったんですかね…
悦楽のブルース 作詩:吉岡治(島和彦/昭和41年)
泣いちゃ 泣いちゃ
泣いちゃ 泣いちゃいないわ
カクテルの
青い 青い 青い 青い グラスが
目にうつる
甘い甘いと つい酔って
さめりゃ心が ほろにがい
雨の夜に あなたは帰る
そんな気がして ならないの
すがりついたら 離さないわ
濡れたあなたの カルダンコート
これもかなしい 夢かしら
雨の夜に あなたは帰る
まるでなんでも ないように
ね、危険なとこないでしょ。ひっかかったのは「悦楽」という言葉でしょうか?そのすぐあとに「恍惚のブルース」(青江三奈さん)が出て、これは大丈夫だった。なぜ「恍惚」がよくて「悦楽」がダメなのか…「♪あとはおぼろ…」と最後は「恍惚のブルース」を歌いだす舟木さんでした。
ブンガチャ節 作詩:星野哲郎(北島三郎/昭和37年)
ダイナマイトが百五十屯 作詩:関沢新一
(小林旭/昭和33年)
~サインボール打ち
手拍子も賑やかな2曲。「ダイナマイトが百五十屯」ではサインボール打ちでは3階席まで3球ほど届き、大歓声で盛り上がりました。舟木さん、唄って打って、さすがにお疲れの様子でした。
「ダイナマイトが百五十屯」今、こんな歌が出てきますかねぇ…「ブンガチャ節」の2番の歌詩が大好きで…「♪恋の病にお医者をよんで 氷枕で風邪ひいた」…こんな粋なハナシないですね。
そのあとに「今夜もあの娘を 夢で見る 逢いたい見たいと夢で見る 夢をみなけりゃなんで見る
見るまで一日寝て暮らす」などとくちずさみながら、脱いでたジャケットを取りに上手袖へ…
この歌詩も、小林旭さん歌唱でヒットした「アキラのズンドコ節」…
調べてみたら詩は西沢爽氏でした。抒情歌系の作品がイメージの西沢先生、こんな詩も書いていらしたのが意外でした。
30曲も唄うんだから、こんなの(サインボール打ち)やめとけばいいのに根がバカだから…(笑)
広いでしょう!フィールドが…それも1曲や2曲じゃないんですよね。結構陽気な歌が多い。
僕が最初に書いていただいたのが「夢のハワイで盆踊り」…アカペラでちょっと唄ってみる舟木さん。バンドがないとオンチでしょ?このくすぐり、また出ましたよ。
「昭和流行歌の最後の巨人」と言っても間違いないでしょうね。当時、専属制が厳しい中でやっていらしたのでどのくらいスゴイか…「カラスが鳴かない日はあっても船村徹がレコーディングしない日はない」と言われていました。作曲してアレンジもして、また次の曲を作って…遠藤先生と二人で支えて下さった。流行歌の大恩人ですね。
ジャケットを着ながら…「ハァ~ッ…」と大きめの溜息をして「ぼちぼち大丈夫になってきました」お喋りしたり、歌をくちずさんだりしながら、舟木さんなりの休憩されてたんですね。
舟友さんの30日の昼の部の花束
この歌はほかの曲とはつながらないんで単独でいってみます。
王将 作詩:西條八十
(村田英雄/昭和36年)
この歌が歌謡曲レコードの戦後初のミリオンセラー。それまでは蓄音機はあまり一般の家になかった
ので調査が始まってからの記録だというハナシを聞いたときに「おお、しょー!?」…と(笑)
一曲ごとにお辞儀をすると、せっかくそのモードに入ってたのにもとにもどっちゃうから、一曲ごとじゃなくブロックの終わりにお辞儀をするだけということに…舟木さんからの御断りの言葉に私も賛同!
船村先生のセンターラインはどこだっていうのはむつかしい。僕個人が、この辺がどうもそんな気が
いたしやす…というのを並べてみました。そんな感じで聴いていただければと思います。
船の汽笛、海鳥の啼く声…
なみだ船 作詩:星野哲郎(北島三郎/昭和37年)
兄弟船 作詩:星野哲郎
(鳥羽一郎/昭和57年)
このあたりから風花のように雪が舞い初めました…
徐々に紙吹雪が、ステージ上の空間を埋めていきます…
「風雪流れ旅」の中盤では、猛烈な吹雪をイメージさせて北の果ての寒気が迫ってくるようでした…
↓船村先生の歌唱でお聴きください。涙が出ます
破れ単衣に 三味線だけば
よされよされと 雪が降る
泣きの十六 短い指に
息をふきかけ 越えて釆た
アイヤー アイヤー
津軽 八戸 大湊
三昧が折れたら 両手を叩け
バチがなければ 櫛でひけ
音の出るもの 何でも好きで
かもめ啼く声 ききながら
アイヤー アイヤー
小樽 函館 苫小牧
鍋のコゲ飯 袂でかくし
抜けてきたのか 親の目を
通い妻だと 笑ったひとの
髪の匂いも なつかしい
アイヤー アイヤー
留萌 滝川 稚内
ラストでは舞い落ちる紙吹雪の純白が真紅のライトに照らし出されてドラマチックな照明美術の演出
がさらに船村演歌の熱情を届ける舞台効果を生んでいました。純白と真紅で縁どられた舞台空間に力強くも一抹の哀しみを帯びた舟木さんのあの独特の声が響き渡って、客席の誰もが、身体を前のめりにさせられたのではないかという想いがしました。
舟木さんが「歌いきった…」という会心の笑顔を見せて一旦、緞帳が下りました。
大きな拍手の中、ふたたび幕が上がって、歌われたのがこの曲でした。
(美空ひばり/昭和33年)
波の小唄に 三味線弾けば
しゃれた奴だと 仲間が笑う
陸(おか)が恋しさに ついつい負けて
呼べば未練が 呼べば未練が
エーエー 夜霧にとけたよ
青い月夜にゃ 泪で弾いた
破れ三味線 あの娘の形見
情あったなら 男の胸を
帰る鴎よ 帰る鴎よ
エーエー 伝えておくれよ
なれぬ手つきで しみじみ聞かしゃ
荒れた心も ほろりと泣ける
無事か達者でか 淋しいえくぼ
辛い想いも 辛い想いも
エーエー しばしの事だよ
いつも思うのですが、舟木さんの声質と発声法は、「演歌」という言葉でイメージしてしまう「生々しさ」というものに薄いヴェールをふうわりと掛けたようで、抑制がきいているという印象です。
ですから「演歌」も「抒情性」を帯びてこちらの耳に届くような気がします。「演歌」のちょっとした泥をそっと拭ってから、また新しい舟木一夫ブランドになって私たちのもとに届けられるようで演歌ニガテな「青春歌謡世代の女性たち」にも受け入れられるのかも知れません。
船村徹作品も、どなたかの持ち歌ではあっても、あくまで船村先生が作品に込められた想いに立ち返
って、そこを原点として出発された歌唱なのでしょう。舟木さん独自の感受性で新たにいのちを吹き込まれたような歌になっているように感じます。
これまで、私は「船村徹特集」というテーマのステージを2回だけ聴いていますが、「男の友情」と、アンコールの「三味線マドロス」は、初めて遭遇しました。
どちらも、いつかどこかで聞いた記憶はあるようなのですがすぐに曲名が浮かんでくることはないものでした。いずれも高野公男・作詩の曲です。
今回のスペシャル企画でとりあげた船村先生の特集は、オフィシヤルコンサートとしては初めての試
みですが、近年では、一昨年(2013年)の「50周年記念ファイナル/新橋演舞場特別公演」の千秋楽
の翌日に開催された「サンクスコンサート」(6月30日)の第二部で「船村徹特集」と題して歌われました。また、昨年(2014年2月)の後援会主催「ふれんどコンサート」で「日本の名曲たち」というくくりの中で「船村徹スペシャル」として開催されています。
それぞれ、構成や曲のセレクトはいくらか異なっています。特に今回、先の2回と大きく違っていたのは、「その1」でご紹介した「高野公男作詩」の作品がクローズアップされていたことです。
船村先生の代表作を時系列に並べると、もちろん二十代前半にともに仕事をなさった高野公男氏の作品が一番最初にくるのは当然なのですが、今回は、アンコールに「三味線マドロス」をおかれていました。また、高野氏の遺作と言える「男の友情」が「船村徹の世界」を端的に示す作品として最も重いポジションに置かれているような印象を持ちましたし、事実、「男の友情」を私自身も「船村演歌」の原点であり、船村徹という作曲家を日本の戦後の歌謡界の第一人者として押し上げてきたマグマのようなエネルギーの源泉だったのだと、あらためて痛感しました。
船村徹著「私の履歴書~歌は心でうたうもの」を初めて読んだのは2013年の「サンクスコンサート」の後だったと思います。その時も、もちろん高野公男氏について書かれていることも「男の友情」という作品のことも、読んではいましたが、今回、舟木さんの構成による、船村先生の朗読から歌に入るという演出で聴く「男の友情」に胸が震えるような感動を覚えました。
今回の「演歌の旅人~船村徹の世界」は、これまで舟木さんがステージで企画なさってきた「船村先生の特集」の集大成でもあることは間違いないでしょう。 そしてまた舟木さんご自身が船村徹という作曲家の心に、これまで以上に寄り添って構成されたステージだと感じました。
「恩師としての船村先生」というよりも、同じ流行歌の世界を生き抜いてこられたこの道の尊敬する先輩であり昭和の流行歌の新しい時代を切り拓き、「流行歌の隆盛の一時代」を築き上げらたキラ星という大きな存在としての「船村徹」、その世界観をステージの上に舟木一夫の視線で見事に示されたように思いました。少し乱暴な言い方になりますが、舟木さんにとって遠藤先生という存在は、より明確に「恩師」という言葉を体現するものであり、それに比して船村先生という存在は、同じ世界を生きてきた「男同士」にしかわからない心意気のようなものを根っ子にした敬愛の上に成り立つ共感の対象であるような何かを感じました。
船村先生と舟木さんにあい通じ合う匂いは「昭和の男」というごく単純な言葉。でも、そんな匂いを纏った男は、今ではもう、そんじょそこらではめったにお目にかかれなくなりました。
「人の情(なさけ)を知る心根、そして夢をあきらめない気骨」…そういったものを背負ったなんとも頼もしくも愛おしい「背中」。
「演歌の旅人~船村徹の世界」…曲の作り手と、歌い手というふたりの表現者の魅力の融合した見事なステージに多くの方がそれぞれの感動を胸に抱かれたことと思います。
カッコいい舟木さんと、カッコいい船村先生、平成男子もちょっとだけおふたりのエッセンスをパラッと胸元にでもふりかけてくれたらなァ…なんて思う「昭和生まれの女」の私です。