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舟木一夫さんをキイワードに無限大に広がるかも知れないブログです

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             ~近松門左衛門作「冥途の飛脚」発~「梅川・忠兵衛/恋染めて風の花」着(上) のつづき~
     
    (上)のおさらいを少し・・・
    冥途の飛脚:近松門左衛門の原作
    傾城恋飛脚:文楽(浄瑠璃) 菅専助・若竹笛躬 合作
    恋飛脚大和往来:歌舞伎 文楽「傾城恋飛脚」を改作脚色
    浪花の恋の物語:映画 「冥土の飛脚」「恋飛脚大和往来」などをもとに成沢昌茂が脚色、内田吐夢監督による(1959年)
     
    イメージ 1「梅川・忠兵衛/恋染めて風の花」 
    2008年8月新歌舞伎座舟木一夫特別公演
     
    復活組のファンの方もたくさんいらっしゃると思いますが、2008年といえばまだ6年前のことですから、「梅川・忠兵衛/恋染めて風の花」の舞台をリアルタイムで御覧になったファンの方は、復活組の方も含めてかなり多いのではないでしょうか。
    私は、もちろん、わずか1年半ばかり前からの戻り組ですから、ナマでは拝見していません。淡島千景さんや、小島秀哉さんなどここ数年で故人となられた俳優さんも出演していらして、あらためて今、長きにわたって舞台人としてご活躍なさった名優の方たちのご不在を惜しむ気持ちとともに、舟木さんの舞台を彩られた方たちの多彩さを痛感しつつ拝見した次第です。なお、この舞台では女優さんではなく池畑慎之介さんが梅川を勤めていらっしゃいますね。歌舞伎の女形としての梅川を意識してのことかどうかわからないのですが、浄瑠璃の世界というイメージの強い「梅川・忠兵衛」を軽演劇の舞台にかけるというのは、それまでの舟木さんの舞台芝居とは違ってきっといろいろな点で難しいことも多々おありだったのではないかと思います。私は池畑さんの舞台は、たまたまですが、ちょうどこの前年くらいに観ています。「一本刀土俵入り」でお蔦を演じていらして、なかなかいい女形ぶりだと思いました。この「恋染めて風の花」の梅川も、いわゆる大衆演劇の女形をなさる俳優さんとは、一線を画していらっしゃって池畑さん独自のムードを創っていらしたと思います。
     
     
    歌舞伎「恋飛脚大和往来」より「封印切」六代目中村勘九郎忠兵衛↓
     
    イメージ 2私が近松原作「冥途の飛脚」という作品の入り口に立ったのは、歌舞伎の「恋飛脚大和往来」の中の「封印切」の場が最初だったと思います。その後、文楽の「傾城恋飛脚」の「新口村」を数回、また、歌舞伎では「封印切」は度々上演されるので演者はその都度変わっていますが、少なくても5回以上は観ているように思います。
    そんなこともあってすっかり自分では「知ってるつもり」だった「冥途の飛脚」なのですが、「恋染めて風の花」を観ていて感じたのは、歌舞伎でずっと観てきた「梅川・忠兵衛」とは、イメージ 4かなり違います。もちろん、舟木さんの個性と魅力を生かした造形による忠兵衛は、舞台に最初に登場した時から颯爽としていて男っぽくてカッコ好いのですから、当然、それまで私が知っていた忠兵衛とは全くイメージが違うのは当然なのですが、この舞台の中では忠兵衛に「兄さん」と呼ばれて、忠兵衛の信頼をも得ている友人の八右衛門の描かれ方が、歌舞伎「恋飛脚大和往来」の八右衛門とは真逆であり、それによってこの作品のクライマックスである劇的場面「封印切」に至る忠兵衛の心理の深層が、ますますミステリアスに感じられ、「恋染めて風の花」は、林与一さんの演出であるとうかがっていましたから、登場人物の設定など、どこから取材して構築なさったのか、自分なりに確認してみたくなりました。
     
     
     
     
     
    ・近松門左衛門原作:冥途の飛脚 あらすじ
    近松門左衛門は、世話物を24作執筆したが、「冥途の飛脚」はそのうちの14作目にあたる。心中物とは異なる結末であり、犯罪物、処刑物と呼ばれる作品である。
     
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    上之巻
    大阪淡路町の飛脚屋亀屋忠兵衛方に為替の催促が相次ぐ。暮れ方の帰宅した忠兵衛の前に、友人の八右衛門が現れ、五十両の為替金を催促する。忠兵衛は、馴染みの遊女梅川を身請けするために流用したと告白する。養母、妙閑が現れて、すぐ五十両を八右衛門に渡すよう命ずる。忠兵衛は小判形の鬢水入れを紙に包んで渡し、八右衛門もひとまず偽の受取を書く。夜更けに、忠兵衛は屋敷方へ三百両の為替金を届けに出かけるが、つい梅川のもとへ向かう。
     
     
    中之巻
    新町遊郭の越後屋を八右衛門が訪れ、遊女たちに鬢水入れの偽金を見せて、忠兵衛の悪口を言う。二階では梅川が、そして外では、駆け付けた忠兵衛がこれを聞いてしまう。忠兵衛はこらえかねて為替金の封印を切り、八右衛門に投げつける。そして、梅川の身請け金にもその金を使ってしまう。その罪を告白された梅川は、嘆きながらも覚悟を決め、二人は忠兵衛の生国大和を目指す。
     
     
     
    下之巻
    二人は、忠兵衛の故郷新口村にたどり着く。幼馴染の忠三郎の家に潜むと、その外を忠兵衛の父孫右衛門が通りかかり、転んで下駄の鼻緒を切る。介抱に出た梅川の正体を察し、孫右衛門は父親としての悲痛な心情を吐露するが、ついに忠兵衛には会わずに去る。二人は逃げるものの結局捕縛される。
     
     
    上記は、近松の原作のあらすじです。そして、原作から文楽への脚色、文楽から歌舞伎への脚色、さらに歌舞伎から文楽への逆輸入などという流れの中で、最後には、最も大衆性のあるメディアである映画にもなっています。
     
    イメージ 6映画 浪花の恋の物語  昭和34年芸術祭参加作品 (1959)
    監督:内田吐夢  脚本:成澤昌茂

    忠兵衛:萬屋錦之介
    梅川:有馬稲子
    近松:片岡千恵蔵
    養母妙閑:田中絹代
    許婚おとく:花園ひろみ
    八右衛門:千秋実
     
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    あらすじ
    忠兵衛は浪華飛脚問屋・亀屋の養子だった。同業丹波屋八右衛門に無理やり新町廓に連れこまれた。その相方が梅川だった。一度は帰ろうとするが、彼女の頼みで、そのまま泊ってしまう。客と寝ずに帰せば遊女は折檻されるのだ。翌朝、八右衛門が口裏を合わせ、無事に家へ入れたが、忠兵衛は、たちまち、その夜、廓へ足が向いていた。それからはチョクチョク遊びが続いた。梅川の情の深さが彼を捉えた。
    イメージ 8竹本座座付作者近松門左衛門は隣室で「わてらにとっては金が仇の世の中・・」という梅川のつぶやきを聞いた。義母の妙閑は忠兵衛の金遣いの荒らさに気づいた。大阪をしばらく離れさせて考えさせようと、為替の差額を取りに江戸へ発たせた。その前夜、忠兵衛は梅川を待つ間、彼女の母あての手紙で、その孝行を知る。彼は金を置き、梅川に会わずに帰った。櫛が彼の江戸土産として届いた。縁を切るとのなぞ言葉か。梅川は泣きくずれた。近松がそれを見ていた。
    藤兵衛という小豆島の醤油の大尽が北陸から帰ってきたら、梅川を身請することになっていた。旅姿のままつい
    イメージ 9廓に寄った忠兵衛は、そのことを聞かされた。持っていた八右衛門に届ける五十両を、梅川の身代金二百五十両の内金として入れ、いつづけを始めた。五十両の使い込みを八右衛門に見つかったが、頼みこんで金は借り、家へ帰った。若い許婚・おとくへの土産は花かんざしだった。妙閑が武家の為替三百両を届ける用事を忠兵衛に命じた。ところが、彼はその金を懐ろに廓へ行ってしまう。藤兵衛が帰阪して梅川の身請の祝宴を挙げようとしていた。忠兵衛の内金はつっかえされた。後の二百両を入れたら、待ってもええ。そう云って梅川の主人は彼を馬鹿にした。
    八右衛門が梅川の部屋で例の五十両の一件を笑い話にしていた。忠兵衛は口惜しく、思わず懐ろの小判を握った。封印がきれ、こぼれた。その金を彼は八右衛門や梅川の主人の前に置き、梅川を連れて去った。
    亀屋に捕方がなだれこみ、忠兵衛の代りに妙閑が引っ立てられた。武家のお蔵金の封印切りは獄門である。瓦版が大阪の街を走った。三輪の里で、忠兵衛は梅川に封印切りを打ち明けた。梅川はそれを知っていながら、ついてきたのだ。二人はどこまでも一緒にいようと誓い合う。
    イメージ 10忠兵衛の実の親に会いに行くところだった新口村の入口で二人は捕った。忠兵衛には獄門、梅川には二度の勤めが待っていた。
    二人の捕縛の知らせを聞いた近松はこの話を三幕の世話狂言に仕立てようとした。そして、新口村の場では、実際には会えなかった梅川・忠兵衛と親孫右衛門を会わせ、つらい別れと親子の情を見事に描いた。
     
    また、映画の中では、近松にこのように言わせています。「可哀そうに男は獄門、女は二度の務め、ほんまはそうなるやもしれん・・が、わての筆はそこまで不人情にはなれん・・・」
    イメージ 11そして、映像は、それまでとはうって変わり、人形浄瑠璃の「新口村」の場面の装束をつけた梅川・忠兵衛の登場となります。「♪おちうどの たねかやいまは ふゆがれて すすき なけれども よをうし あだや ひとめ♪」の長唄にのせて、歌舞伎舞踊を優雅に舞う錦之介さんと有馬稲子さんの美しさが際立ちます。
    さらに、「♪大坂を立ち退いて私が姿を目に立てばかりかごに塩おくり奈良のはたごや三輪の茶屋♪」と梅川(有馬稲子)の舞いが続き、次第に人形に変わっていきます・・・ ラストは、ふたたび梅川の「忠さまに会いたい、忠さまのところへ行かせて!」という悲痛な叫びと浄瑠璃の語りが重なって「終」のエンドマーク
     
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    この映画の脚本は、拙ブログで先にご紹介した「右衛門七にまるわるあれこれ(下)」の新作歌舞伎「主税と右衛門七」の作者である成澤昌茂氏によるものです。
    舟木さんがコンサートのトークでも、よく話題になさる萬屋錦之介さんが主演された名作として世に知られている「浪花の恋の物語」ですから、おそらく舟木さんもこの映画をご覧になっていていらっしゃることは間違いないでしょう。
     
    「冥途の飛脚」では、八右衛門という人物は、ごくごくフツーの感覚の大阪商人として登場しているように思います。忠兵衛に対しても仕事仲間の心やすさという気持ちで付き合っているようです。むしろ、忠兵衛のほうが「飛脚屋」という稼業を生業にしているにしては、いささかイージーでルーズな印象を受けます。
     
    「梅川・忠兵衛 恋染めて風の花」では、八右衛門は忠兵衛にとって終始信頼できる人物として設定されていて「封印切」に至る、直接的な引き金になったのは梅川を身請けするという「阿波のお大尽」や廓の主人に商人としてのプライドを傷づけられたことへの意地を見せるという流れになっています。
     
    残念ながらこの舞台のパンフレットは所持していませんので、舟木さんがそこで「浪花の恋の物語」について言及されているかどうかはわからないのですが、ご存知の方、ぜひ情報をお寄せ下さいね。

    ~近松門左衛門作「冥途の飛脚」発~「梅川・忠兵衛/恋染めて風の花」着(下)につづく~

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    ~近松門左衛門作「冥途の飛脚」発~「梅川・忠兵衛/恋染めて風の花」着(中)のつづき~
     
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    それぞれの「封印切」
     
    「忠兵衛が封印切」に至ってしまう経緯の心理をあらわす場面について、原作~文楽~歌舞伎~映画~そして「恋染めて風の花」のそれぞれの、描写を私なりにセイリしてみました。
     
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    1 冥途の飛脚:近松門左衛門原作
     
    嫌な客を避けて梅川が越後屋に来ているとき、八右衛門が越後屋に来て他の遊女たちに「忠兵衛が梅川にのぼせ上がって商売の為替金まで手につけているので、寄せつけぬようにした方がいい」と言う。
    そして、「さらし首のもとになる品みせようか」とさらに遊女たちに忠兵衛が渡した鬢水入れを見せて、隠し事までばらす。これを表で聞いた忠兵衛が立腹して八右衛門に詰め寄り、思わず懐中の為替金300両の封印を切る。忠兵衛は、借りた五十両を八右衛門に投げつけ、その勢いで残り金も梅川の身請けに使ってしまう。

    2 傾城恋飛脚:「冥途の飛脚」改作・浄瑠璃脚色(菅専助・若竹笛躬の合作)

     
    設定としては八右衛門と忠兵衛は梅川をめぐる恋敵となっている。そして槌屋治衛門は梅川と忠兵衛の味方である。しかし忠兵衛は梅川を身請けのため手付けとして五十両の金を出したものの残りの金を渡す期限がとっくに過ぎてしまった。このままでは金まわりの良い八右衛門が梅川を身請けすることになる。
    槌屋治右衛門が忠兵衛に肩入れして自分の身請話を承知しないのだろうと思った八右衛門は散々に忠兵衛への悪口を言い散らした。表に居てそれまでの様子を聞いていた忠兵衛はついに怒りを爆発させ、蔵屋敷へ届けるはずの三百両を出して包みを解き、その中の五十両を八右衛門めがけて投げつけた。

    3 恋飛脚大和往来:歌舞伎脚色
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    設定はほぼ「傾城恋飛脚」に準じる。槌屋治衛門もおかみのおゑんも梅川・忠兵衛に心を寄せているので八右衛門からの身請けの話には取り合わないようにしている。歌舞伎でも八右衛門の忠兵衛に対する悪口雑言の挑発に怒った忠兵衛が思わず、八右衛門と言い争って懐の小判を出し入れするうちに、勢い余って金の包み紙が自ずと破れ小判が床に散らばってしまう。
     
    *雁治郎型と仁左衛門型があって微妙に異なります。若手の俳優さんが演じる時は、いずれかを踏襲なさっているようですが、歌舞伎もナマモノですから俳優さんの感性などによりそれぞれが工夫をなさっているようです。
     
    4 浪花の恋の物語:映画(成澤昌茂:脚色/内田吐夢:監督)

    商売仲間の丹波屋八右衛門に、新町廓に誘われて梅川とねんごろになった忠兵衛。それ以来廓通いをするようになった。八右衛門からさる「お大尽」が梅川を身請けすることになったと聞かされた忠兵衛は、八右衛門に届けることになっている五十両を梅川身請けの内金として使い込んでしまう。事情を打ち明けられた八右衛門はその場では忠兵衛に貸したことにしてくれたが、廓で遊女たちに「忠兵衛の梅川への執心ぶり」を笑い話のタネにしていた。それを障子の外にいて立ち聞きしていた忠兵衛は悔しさのあまり懐の小判を握り封印が切れてしまった。またその後に、廓の主人夫婦からの屈辱的な言葉を浴びせられて残りの金の封印も切ってしまった。
     
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    5 梅川・忠兵衛~恋染めて風の花 (井川公彦:脚本 林与一:演出)2008年8月 新歌舞伎座公演

    設定は、梅川をめぐる忠兵衛の恋敵は、田舎やくざ風の「阿波のお大尽」。さらに槌屋の遣手婆も「阿波のお大尽」に加担している。直接的に、忠兵衛を逆上させたのは「亀屋」の身代への屈辱的な値踏みへと忠兵衛の実父や実家を愚弄する言葉であり、商人としてのプライドや甲斐性を冒涜されたことへ対する怒りという印象を強く感じました。舟木さん演じる忠兵衛は、近松がモデルにした忠兵衛が24歳という設定であることを思えば、さらに分別のある、もう少し年長、せいぜい三十歳前後というイメージでの舞台冒頭からの登場でしたから、文楽、歌舞伎映画で印象付けられた忠兵衛の「たよりない半面、短絡的で血気盛んな若者」とは異なった「封印切」に至る心理のプロセスがあっても当然のように感じられましたから、そこは舟木忠兵衛の「男気」の炸裂という点で、私としては違和感のない「封印切」であると納得できました。「恋染めて風の花」という甘やかなタイトルではありますが、その実、なんとも「男性的な忠兵衛像」で、それまで私が感じたことのない新たな忠兵衛をみせていただきました。
     
     
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    「浄瑠璃を読もう」(新潮社 橋本治)2012年7月発行 より一部抜粋

    忠兵衛が封印を切って遊女の梅川を連れて逃げたのは、宝永七年(1710)の初めに起こった実際の事件である。
    近松門左衛門はこれを題材にして翌年に「冥途の飛脚」を創り上げる。~中略~
    「浪花の恋の物語」で忠兵衛を追いつめるのは「遊女になった女を不幸にする売春施設の廓」とい
    う悪で、強欲な梅川の抱え主は「飛脚問屋の若旦那だと言われても、大和の百姓から養子に来たお前に金などあるはずはない」と忠兵衛を辱めて、忠兵衛に封印を切らせてしまう(「恋染めて・・」では、この「悪」を一手に「阿波のお大尽」なる男が負っているのですが)

     
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    ここで書かれているように忠兵衛に「封印」を切らせたものは、直接には「金」にかかわる「屈辱」ではあるのですが、「遊女になった女を不幸にする」システムとしての廓やその経営者への憎悪というものも抜きにしては語れないような気がします。特に私たち現代に生きる女性としては、梅川の不幸な運命と「封印切」には密接なかかわりがあると思いたいですね。実年齢の忠兵衛は、24歳ですが、梅川はまだ20歳前だと思います。
    「傾城に誠なしと世の人の申せども、それは皆僻事訳知らずの詞ぞや、誠も嘘も本一つ」(「冥途の飛脚」中之巻より)・・・十代から廓ぐらしをしてきた梅川が、客とは言え、忠兵衛に情を移すことが全くなかったかと言えば、そうではないような気がします。親の借金のかたに生涯廓で暮らすか、意に染まない男に身請けされるかしか選択肢のない現実の中で、拉致されたわけでもないのに「封印切」という大罪を犯した忠兵衛に心中だてをして一緒に逃亡することを選んだということの方が、私としては興味深いところです。

     
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    いっときの逆上で将来を棒に振るのはおろか命さえ落としてしまうような罪を犯してしまった忠兵衛と梅川の逢瀬のひとときに何が語られ、どのような心のふれあいがあったのかについては、「冥途の飛脚」にも細かな描写はなく「廓」の遊女と客としてのかかわり以上の決定的なエピソードも読み取ることはできませんが、いずれにしても、夢も幸せも望めない苦界におかれていた梅川にとっては、遅かれ早かれ「二度の務め」をしなくてはならない身であるならば、短くともいかばかりかの情を通わすことのできた忠兵衛の最期に心を添わせ、また自分自身の生涯の華としての記憶として短い時を過ごしたいと思ったとしても、無理からぬことだと今の時代を生きる私にも思えます。
    梅川と比較すれば、それなりに自由に生きられたはずの境遇にあった忠兵衛の視点からは、理不尽で不可解な「冥途の飛脚」という作品ですが、梅川が忠兵衛と一緒に逃亡しようとした想いはよく理解できます。
     
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    「冥途の飛脚」は冒頭にも書いたように、「心中物」ではありませんが、「恋染めて風の花」の幕切れは「心中」を予感させるラストシーンで締めくくられています。
     
     
     
     
     
     
     
     
    イメージ 3文楽では雪の中を去っていく梅川と忠兵衛を見送る孫右衛門の姿で幕となる抒情性豊かな幕切れです。「浪花の恋の物語」の中では「冥途の飛脚」の作者の近松を登場させて、狂言回し的な役どころをさせています。そして、新町に通う客と遊女の間に起こったドキュメンタリーを浄瑠璃の本に書くという生々しいシチュエーションで物語は進んでいくのですが、「封印切」の場面のあと梅川を連れて逃亡した忠兵衛は、すぐに捕縛され獄門送りになり、梅川ひとりが再び新町に戻されてきます。そこで、近松は「可哀そうに男は獄門、女は二度の務め、ほんまはそうなるやもしれん・・が、わての筆はそこまで不人情にはなれん」と新口村の場を設定し、梅川・忠兵衛と孫右衛門を会わせ、親子の情を見事に描くことで後世に残る作品となったのだと思います。
     

    イメージ 14このように、逃げたふたりが、忠兵衛の実父の孫右衛門に別れを告げるために大和の新口村に向かい、梅川の計らいで、「目かくし」をしつつも今生の別れの時を持ち得たという「文楽」では最高の見せ場である「新口村」の親子の情、嫁舅の情が描かれた部分こそが、「犯罪物」や「哀れな恋物語」としてよりも、ひろく大衆の心に訴える「世話浄瑠璃」としてイメージされるようになったということはいかにも日本的で興味深いことです。
     

     

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    待ちに待っていた2014年のファーストコンサートが開催されました

    携帯からなのでセットリストのみですが速報です

    柿の実色のジャケット、白シャツ、黒のベストに黒のパンツ、蝶ネクタイ


    オープニング~
    立ち話


    東京は恋する
    くちなしのバラード
    花咲く乙女たち
    友を送る歌


    その人は昔のテーマ

    北国の街
    哀愁の夜
    高原のお嬢さん


    宵待草
    ゴンドラの唄
    浮世まかせ


    ジャケット着替え~ラメ入りの渋い深緑、胸にクリーム色のバラ



    明日咲くつぼみに
    ああ青春の胸の血は
    君たちがいて僕がいた
    高校三年生
    学園広場


    初恋
    夕笛
    吉野木挽唄~絶唱


    アンコール~
    スタンディングで
    君よ振りむくな


    昨年からおっしゃっていた「日本の名曲」として「宵待草」「ゴンドラの唄」を舟木さんテイストのバラードのようなドラマチックな歌唱で艶やかに表現されました。

    また「吉野木挽唄」のアカペラから「絶唱」へのラストナンバーは圧巻でした。

    歌声はますます若々しい上に深みと響きがブラッシュアップされ2014年のスタートを最高に楽しませていただきました。


    舟木さんいったいどこまで進化なさるんでしょうか

    詳細れぽは後日に

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    2月6日、大宮ソニックシティホールから2014年の舟木さんのコンサート活動がスタートしました。
    一週間以上くらいも前から最大級の寒波が襲来するとか大雪が降るなどの天気予報で戦々恐々だった上に、私事ながら、めずらしくひいた、「ただの風邪」がなんともクセモノだったらしく、2週間余り体調不良で悩まされていました。上京する当日も、なんとか回復してはいたのですが、まだまだ万全とは言えず不安が残っていましたが、幸い、心配されたお天気は大丈夫で新幹線にも影響はなくて、順調に大宮に到着することができました。
    遠方から来られてる舟友さん、関東近郊の舟友さんなどと駅前でおちあって、お喋りしてからすぐ目の前の大宮ソニックシティに向かいました。まだまだ開場まで時間があるにもかかわらず、ホール前はもうあふれんばかりの人でいっぱいでした。
    イメージ 1ほとんどの人が指定席のチケットもあるのですが舟木さんのコンサートには、どうしてこんなに早々と人が集まるんでしょう(笑)そういう私も、この日ばかりは、開演が本当に待ち遠しくてソワソワ、ウキウキでした。一年のスタートということもありますが、昨年12月25日の新橋演舞場からなんとなんと38日間も経っていて舟木さんに逢えるのは久しぶりですから嬉しくて、楽しみで仕方ありませんでした。
     
    イメージ 2
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    イメージ 36日は昼・夜拝見しましたから、大宮の近くのホテルに一泊して翌日午前中に東京を離れました。まだ、この時点ではお天気も良くて、スムーズに帰宅できましたが、一夜明けて今日8日は一面の雪景色が広がっていて、一日遅くなっていたらとんだことになっていたんだろうなと幸運を感謝しました。飛行機などで遠方から来られてる方も皆さんご無事に帰ることができて本当に何よりでした。
     
     

    イメージ 4舟木一夫 コンサート 
    大宮ソニックシティ・大ホール
    2014年2月6日  昼 14:30  夜 18:30 
    各回 約100分 (休憩なし)
    舟木さんのトーク部分はピンク文字です。昼夜のトークをまとめています。

    柿の実色のジャケット、白いシャツ、黒のベストに黒のパンツ、黒の蝶ネクタイで登場

    オープニング~
     立ち話

    立ち話 作詩:尾中美千絵 作曲:三木たかし
    (1978年6月シングル発売)
    あなたは美しい 今も変わらない
    夕暮れの人波に 押されてめぐり逢い
    久しぶり元気かと ありふれた言葉
    煙草のけむりに 心かくして立ち話
     
    イメージ 6イメージ 5あなたも覚えてる 忘れたふりしても
    傷ついた恋の日を その瞳(め)がなつかしむ
    見る夢が違うのさ 男と女は
    二人で過ごした 淡い季節の中でさえ
     
    あなたは逃げるのか 急ぐだけなのか
    さりげない物腰に さよならも優しく
    忘れよう今日かぎり 捨てよう思い出
    一つの青春 今は二つの物語
    一つの青春 今は二つの物語

     
         「ポップソングスペシャルセレクション」にも収録されています →
         (2013年8月21日発売)
     
     
    明けましておめでとうございます・・・というのもマヌケですしね・・どうしましょうか・・木枯らしもふところも寒い中、ようこそ(笑)このコンサートが仕事始めなんです。1月も(仕事を)したんですが、リハーサルという感じで・・去年の12月に69才になりました。70まであと11カ月・・今が冬本番というところですが、年々、冬の寒さがそれほど厳しいと感じなくなってきてます。四季がボヤけてきたんでしょうか・・子どもの頃の「しーん」として寒さはないような・・・「?十分寒いよね」という空気の客席の反応を感じ取られたのか、共感を得られなかったと察知なさったのか(笑)・・・何云ってるのかわからなくなってきました。アホちゃうか!?なんておっしゃりつつ、今年も一年間、宜しくお願いします。と締め。

    ~メドレーで、プレゼントタイム~
    東京は恋する
    くちなしのバラード
    花咲く乙女たち
    友を送る歌

    イメージ 7これだけ長いこと皆さんの前に立たせていただけてると、喋ることもなくなるし、新聞や雑誌に載ってることも楽しい話がないし・・・バカ受けして、お断りしたんですが、舞台の時代劇に、○○って人を、出してみたらという話がありました。その時の話題の人を連れてこようかということなら○○くんを連れてきてサインボールを投げてもらうとか(笑)・・・去年で丸々50年時間が経ったわけですが、よくここまで来ましたね。うしろのバンドの皆さんや、いろんな方面の方のおかげで・・私も途中で「ヒルネ」しましたが・・・今、60代最後の一年ですが(拍手)~あんまりめでたいとは云えない・・高校三年生もあと10カ月で・・・お互いさまにご愁傷様で・・いろんなつっかえ棒がないとできない旅ですから、色々な作品にめぐまれた幸せな歌い手です。こうやって歌っていても、あれが足りない、これが足りないってことはない・・
     
    その人は昔のテーマ
     
    この歌は、なんだかしらないけど後ろ向きに始まって、後ろ向きに終わる・・余韻を残した曲の後はむつかしい。20代に、「その人は昔~メモリアルコンサート」で通しでやったことがあるんですが、これが船村さんの作品?感じがするでしょ。「王将」「風雪流れ旅」とかのイメージですから・・・当時、船村さんはまだ三十代で、すごいパワーだった。若い時にめぐり逢えたのは幸せだった。
    ここでみっつ並べたのも大ヒットした歌。お客さんが選んだ歌はいい!
     
    北国の街
    哀愁の夜
    高原のお嬢さん
     
    どれも時代の香りがする名曲。僕がデビューした頃は「夜霧」が小道具として出てくる歌がたくさんあった。今は「夜霧」なんかありませんもんね。使えなくなった言葉もたくさんある。「哀愁の夜」は、演歌よりのメロディーだと思うんですが・・「旅の夜風」なんかも演歌とは違う感じがしますが、どのジャンルに入れるか?「流行歌」独特の感じですね。「日本の名曲」・・「古典」といわれるものと「流行歌」どこからセンを引くか・・
    「昭和の流行歌」という切り口ではなくて、僕が流行歌手になりたいと思った時からこちらの歌~小学校六年生ぐらいから聴き始めた歌~なんとなく僕も御客様も耳のどこかに残っているという歌を中心に2曲・・・2曲でも1000曲(選曲)
    ・・とまたしても駄洒落(笑)さらに、スタートは古典でいきます。コテン!と首を右に傾けるお茶目な舟木さんはキュート過ぎて私的には最強のツボです(笑)
     
                               毎回コンサートのたびに昼・夜とも見事な花束をプレゼントなさる舟友さんのお花です
     
    イメージ 10
     
    「その人は昔」のテーマとか、「宵待草」とか、カッコ良くて色っぽい曲の後とか、前とかだとテレ隠しのよう
    に妙にお茶目ぶりを発揮する舟木さんのようです。くすぐられますねぇ・・舟木さん反則だぞォ~ッ!
    昨年の初めから、毎回のようにステージで予告なさっていた「日本の名曲」をやっとたっぷりと聴かせていただきました。歌舞伎とか文楽なら、歌い終わった時に「大当たりぃ~ッ!」と大向こうから声がかかるような素晴らしいものでした。「抒情歌の舟木一夫」という揺るぎない看板を背負っていることは間違いなしです。舟木さんは「宵待草」や「ゴンドラの唄」などを「歌曲」ともおっしゃっていましたが、短い定型詩の中にスケールの大きなドラマ性を孕み、しかも叙事にとどまらず聴く人ひとりひとりの頭の中に限りない広がりのあるイメージの世界を届ける抒情性を宿らせる力が舟木さんの歌唱にはあるのです。ご本人は巧い下手の問題ではなく、プロの歌い手としてのスケールの大きさや響きだとおっしゃっていますが、それは舟木さん独特の言い方であって、やはり、たゆまぬ研究と研鑽が生んだウルトラ級のテクニックなしで語れるものではないと思います。歌人や詩人が、命を削るようにして選りすぐった過不足のない言葉の、ひとつひとつの重みや息吹きを掌の中に包んだ花びらを扱うように繊細な心で鮮やかに私たちの目の前に見せてくださるような歌唱でした。言葉数の少ないスローバラードは、歌舞伎舞踊のような派手さとは異なる動きの少ない「地唄舞」のような世界観に似ているように思います。アップテンポで軽快に歌う曲よりも、何倍もごまかしのきかない曲です。しかも「宵待草」や「ゴンドラの唄」には独特の古典的な「匂い」があります。聴く側もまた、それを求め、イメージして聴きます。ですから、ただ「歌いたいから歌う」ではすまされない五十年選手のプロの歌い手としての自信と歌いきるテクニックという裏付けが不可欠だと思います。
    舟木さんは、しきりに、もうこういう自分の歌いたいものを歌うわがままを許していただけるかと・・控え目におっしゃいますが、若い頃から、ずっとこのジャンルの歌も歌っていらしてきているのですから、今さら、わざわざ、「お客様」の了解を得るまでもないと思うのです。私としては逆に、今ご自身の声と表現力で、やっと本来、ご自分がイメージしてこられたような歌唱が自在にできる境地を手にすることができたということの告知のような気もしています。「船頭小唄」にしても「宵待草」や「ゴンドラの唄」・・「荒城の月」などなど舟木さんはその抒情性と憂いを帯びた独特の声質と詩の理解力や表現力で若い頃から、他の若手歌手とは異なった持ち場でその歌い手としての守備範囲を持続してこられています。その集大成が、今年からスタートした「日本の名曲」をステージで披露するということなのだと私は感じています。
     
    イメージ 8宵待草
    ゴンドラの唄
    浮世まかせ

    「宵待草」と「ゴンドラの唄」舟木一夫の 花のステージ第七集(1967年12月発売)に収録音源ありますが、やはり若い頃の声や歌唱とは雰囲気はかなり違いますね。舟木さんがおっしゃるように「スケール」の大きさが圧倒的に加わった今の歌唱です。

     
     
     
    イメージ 9「宵待草」~アルバム「宵待草/竹久夢二の郷愁」(1973年6月発売)にも収録されています。また、その後ステージでも上記のアルバム収録曲などとWHITEの自作曲「夢幻-MUGEN」などと併せて「組曲」構成で歌っていらっしゃいます。しかし、今回のような、単独の「歌曲」というスタイルで歌われたのは初めてではないかと思うのですが・・・なお舟木さんは八十の作った2番を原詩のまま「花が散る」と歌っていらっしゃいます。おそらく今、この2番の詩で歌っているのは舟木さんだけではないでしょうか。1967年と73年のアルバムでは「宵待草」は一番の詩のみで歌っていらっしゃいます。

     
     
    イメージ 11宵待草  詩:竹久夢二  作曲:多忠亮
     
    待てど暮らせど 来ぬ人を 宵待草のやるせなさ
    今宵は月も出ぬそ(さ)うな

    宵待草  詩:西條八十(二番)
     
    暮れて河原に星一つ 宵待草の花が散る
    更けては風も泣くそ(さ)うな
     
    宵待草
    夢二が亡くなって4年後の1938年に、その爆発的人気にあやかり『宵待草』という映画が企画された。その際、映画の主題歌にはこの3行の歌詞は短すぎるとして、夢二と親しかった西條八十によって新たに第2番の歌詞が加えられた。ところがその歌詞の中に、宵待草の花が「散る」という表現があり、「月見草は萎むもので直ぐには散らない」という指摘を受けて歌詞は訂正されたものの(「花のつゆ」と訂正)。第2番が歌われることはほとんどなかった。(ウイキペディアより)
     

     
     
    イメージ 12ゴンドラの唄 作詩:吉井勇 作曲:中山晋平
     
    いのち短し 恋せよ乙女
    あかき唇 あせぬ間に
    熱き血潮の 冷えぬ間に
    明日の月日は ないものを

    いのち短し 恋せよ乙女
    いざ手をとりて かの舟に
    いざ燃ゆる頬を 君が頬に
    ここには誰れも 来ぬものを

    いのち短し 恋せよ乙女
    波にただよう 舟のよに
    君が柔わ手を 我が肩に
    ここには人目も 無いものを

    いのち短し 恋せよ乙女
    黒髪の色 褪せぬ間に
    心のほのお 消えぬ間に
    今日はふたたび 来ぬものを
    *舟木さんの歌唱は1、2、4番でした。

    ゴンドラの唄
    1915年(大正4年)に発表された歌謡曲。吉井勇作詞。中山晋平作曲。芸術座第5回公演『その前夜』の劇中歌として生まれ、松井須磨子らが歌唱、大正時代の日本で流行した。
     
    注:志村演じる主人公がブランコをこぐシーンは名シーンとしてよく知られている。脚本はレフ・トルストイの「イワン・イリイチの死」が下敷きにされており、作中にそれを暗示するせりふも盛り込まれている。黒澤はこの当時、東宝争議の影響で、映画界入り以来所属してきた東宝を去り、独立プロ「映画芸術協会」を設立して、他社で『野良犬』、『羅生門』、『白痴』などを制作していた(『野良犬』以外の監督作品は、いずれも配給は大映・松竹である)。労働争議が終息した後の1952年(昭和27年)に、東宝復帰第1作として制作されたのが本作『生きる』である。黒澤は作中で積極的に流行歌を取り入れているが、「生きる」では作中に絶望した初老の主人公が口ずさむ歌として「ゴンドラの唄」が選ばれた。「ゴンドラの唄」は吉井勇の作詞、中山晋平の作曲で1915年(大正4年)に芸術座の第5回公演『その前夜』(ツルゲーネフ作)の劇中歌として用いられ、のちに流行歌となった。

    みっつめのは古典でもなんでもない40周年の記念に作った曲です。「宵待草」は歌詞として書かれたものではないです・・西條先生が大好きで~三木露風の「ふるさとの」もお好きでしたが~ツーコーラス目を自分で書いたんです。「ゴンドラの唄」(注参照)は黒澤監督の「生きる」の有名なブランコのラストシーンで志村喬さんが歌っています
     
    ここから後半です
    着替えたほうがいいですか?じゃあ着替えます・・もう一着もってきてます。零細企業なんで人手不足だからこうして見えてるところで着替える(笑)と舞台の上手まで歩いていってジャケットを着替える舟木さん
     
    ジャケット着替え~ラメ入りの渋い深緑、胸にクリーム色のバラ
     
    あんまりこういうヒカリモノは着ないんですが、たまにはこういうのも着てもいい?ラメ?(笑)ハイハイ、パチ
    パチで~す!・・・今年もバカです(笑) 駄洒落が言えるのはカシコイ証拠ですよね
     
    イメージ 13
     
    明日咲くつぼみに
    ~メドレー、プレゼントタイム~
    ああ青春の胸の血は
    君たちがいて僕がいた
    高校三年生
    学園広場
     
    こうやって並べてみると舟木一夫という歌い手はじつに作品にめぐまれていると・・
    客席の皆さんが、自分の青春を確認なさってるのが~特に男性が~手に取るようにわかる・・時間が経った分、歌のなかにいろんな想いがこもる、愛おしく想う・・・「流行歌」っていいですね。「学園広場」でも同じ風景が浮かんでるわけですから。55年目は73です。頑張るしかない。いけるところまで行ってみます。
    そろそろお客様におゆるしを願いたいと思うのは、ぼちぼち僕も楽しむことをカンベンしてもらいたいと・・
    せっかく流行歌が好きで流行歌手になって、皆さんのおかげでここまで来たわけですから・・私、この12月に70なのによく髪の毛がありますね(笑)・・・ごほうびだと思って自分の好きな歌いたいと・・
    NHKBSでオンエアされますが、船村先生のギターで初めて「夕笛」を歌ってきました。(船村先生は)81
    才ですからね、ギターも・・・(笑)いきなりストーンと初心にもどれる・・・嬉しい関係です。
    プロの歌い手にとって一番むつかしいのはスケールの大きさ・・声の響きだけで間口を出そうと思ったらむつかしい。三十代後半くらいから「空間のさばき方」ということを思い始めた。
    「空間のさばき方」・・・これは今回の舟木さんのトークで一番印象に残った言葉でした。
    いわゆる声質とか声量など天性の資質にまかせた「力技(ちからわざ)」だけで通用するのは、三十代までなんだと私も感じます。どんな世界でも表現者である以上、一度はそういった転機というか折り返し点が必ずあるのだと思います。舟木さんの声は、その年代年代の音源でお聴きしている限り、やはり三十代の花の盛りの声というのは得も言われぬ輝きと香りと突き抜けた美しさが感じられます。デビュー当時の素直な歌唱の時期にはない「気づき」という魅力があります。これは本当に特別な時代ではないかと感じられます。
    イメージ 19これが顕著に感じられるのは15周年記念の10枚組アルバム「限りない青春の季節」です。それまでのシングルはじめ代表的な曲をほとんど再録音していらっしゃいますが、これは本当によくぞ残して下さったと思うほど素晴らしい歌声です。舟木さんにとって決して恵まれた時代ではなかった15年目のこの時期に、沢山の曲を再録音しようとなさったことそのものが舟木さんのプロの歌い手としての認識の確かさでありセンスの素晴らしさだと私は痛感しています。
     
     
     
     
     
     
     
    初恋
    夕笛
    吉野木挽唄~絶唱
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    吉野木挽唄
     
    ハアー 吉野吉野と 訪ねてくればよ
    吉野千本  花盛りよ
    ハアー何んの因果で 木挽を習いよ
    花の盛りを  山奥によ

    絶唱  作詩:西條八十 作曲:市川昭介
     
    愛おしい 山鳩は
    山こえて どこの空
    イメージ 15名さえはかない 淡雪の娘よ
    なぜ死んだ ああ 小雪
     
    結ばれて 引き裂かれ 
    七年を 西東
    いのち短く 待つ日は永く
    泣きぬれた ああ 小雪
     
    山番の 山小舎に 
    春が来る 花が咲く
    着せて空しい 花嫁衣装
    とこしえの ああ 小雪
     
    「ゴンドラの唄」でご紹介した「生きる」(1952年公開)で主演なさった志村喬さんは、14年後に「絶唱」(1966年公開)で、舟木さん演じる園田順吉の父、大地主の園田惣兵衛として共演されています。そう考えると舟木さんってあらためて本当に凄い名優の方たちと一緒にお仕事されてきていることに驚きます。
     
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    そろそろラストブロック・・・今年はどんな構成を考えて下さっているか・・先ず一曲目が「初恋」でしたから
    抒情歌系でまとめられるんだろうなァ・・と二曲目がトークでも出てきた「夕笛」・・「絶唱」をコンサートで
    外すことは絶対ないと信じてるので、ラストは「絶唱」だなァ・・と思ってはいたのですが・・なんとも嬉しす
    ぎるサプライズの趣向でした。
    後ろ向きになった舟木さん・・・ライトが落ちて・・・アカペラで「ハァ~~~・・」と吉野木挽唄がはじまり
    ました。
    イメージ 18アルバム「日本の四季~西條八十の世界を歌う」(1972年6月発売)では新録音版で「吉野木挽唄」から「絶唱」に入るとうスタイルで収録されています(木挽唄は一番だけ)が、ナマでのこのスタイルは私は初めて遭遇しました。「絶唱」だけはどうしてもスリーコーラスで歌ってほしいというのが私の悲願ですが昨年の新歌舞伎座のコンサートではスリーコーラスの「絶唱」を聴けて大感激したばかりです。さらに、今回は「吉野木挽唄」から入るという私にとっては「絶唱の完全版」ですから、涙、涙でした。走馬灯のように映画のシーンが浮かんできてどっぷり「絶唱」の世界に浸りきりました。その上、舟木さんが後半で選んだジャケットの深緑は、吉野杉の木立を思わせ、カンペキでした。ジョーダン抜きに「舟木さん、私のためにありがとう」(笑)って気分でした。
    勿論、帰宅してから、「絶唱」をじっくり観ましたよ!何度観ても、冒頭のシーンからジワっときてしまいます。
    今年のソロ・コンサートは、たった4回しかありませんが、ぜ~んぶ行きま~す!
    このラストの「絶唱」だけで、大満足な私です。
     
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    アンコール~
    スタンディングで 君よ振りむくな

    イメージ 21今年の構成は、スタンディングがアンコールなのも私としては落ち着いてて大歓迎です。
    舟木さんもこのスタイルのほうが、いくらかラクではないかと思います。
    お楽しみのサインボール投げも、最後の最後にあるから、ファンとしても楽しみ倍増なんじゃないでしょうか。
     
    今年も、とってもとってもステキな舟木さんにいっぱい出逢えそうです。
     
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    舟木さんを愛する皆さまへ
     
    いつも、いつもご訪問いただき本当にありがとうございます。
    実は恥ずかしながら、このたび、たくさんの舟木さん歌唱の動画を作成してくださっている舟友さんのご厚意で私のブログを紹介する動画まで作ってくださることになりました。
    昨年の秋から、そのようなお申し出を頂戴し、こんな拙いブログからどんな動画ができるのか・・・なんとも恥ずかしく、恐縮の限りだという想いでおりましたが、先日、その完成した動画を拝見させていただき恥ずかしさよりも嬉しさでいっぱいになりました。全くのITオンチで、決まりきった手順でしかブログの作成もおぼつかない私ですので、自分の手慰みのようなブログがこんな風に動画として大好きな舟木さんの「れんげ草」をBGMにしてひとつの作品となって皆さまに御披露できることに感激しています。手前みそのようで本当に恐縮ですが、お骨折り下さった舟友さんへの心からの感謝を込めて、ここにご紹介させていただきたく思います。
     
    れんげ草の咲くさんぽ径~舟木一夫の世界 春日局のブログ ↓ 
    http://blogs.yahoo.co.jp/uesaka679kazuo/11819299.html
     
    イメージ 1私は1952年生まれですから、舟木一夫さんがデビューなさった時は、まだ小学五年生でした。
    ですから、多くの舟木さんファンのように「高校三年生」での「鮮烈な出逢い」という体験をしたわけではありません。おそらく舟木さんがデビューから一年ほど経過した頃から気になる存在になったんではないかと思います。大河ドラマ「赤穂浪士」の矢頭右衛門七は印象深く記憶にあります。舟木さんの右衛門七をテレビ画面の前でかしこまって待っていたことはしっかり覚えています。
    イメージ 2それから中学生になる年の春休みに観た「北国の街」で私としては初めて舟木さん演じる高校生・海彦さんの詰襟姿に心を鷲づかみにされたのですから、デビュー曲「高校三年生」の詰襟の舟木さんという印象よりも映画「北国の街」での切ない初恋に心揺れる制服姿の舟木さんのイメージが強くあります。
     
    イメージ 3そして、何度もブログでしつっこくとりあげている「絶唱」の園田順吉は決定的に私の中の舟木一夫像をかたちづくりました。芸能雑誌などは買えませんでしたから、この作品を舟木さん自らが日活に企画を持ち込み熱意をもって取り組まれたことなど知る由もありませんでしたが、思春期の私にとって、この映画と歌がどれほど大きな影響を与えたか計り知れないと思っています。でも、皮肉なことに舟木さんが演じた園田順吉という純粋で正義感と優しさにみちあふれた若者は具体的な憧れの男性というより、抽象的な社会正義のシンボルとして私の中でひとり歩きをはじめてしまったようです。高校生になってからはどちらかというと芸能界のことより社会で起きていることの方に関心が向いてしまい、「絶唱」をピークにしてすっかり舟木さん離れをしていくことになります。
    舟木さんとの「再会」は、それから46年後の2012年9月の新歌舞伎座公演です。歌舞伎、文楽、能・狂言、落語など主に伝統芸能の舞台に親しみ始めたのは40代後半からですが、話題作のミュージカルや一般演劇も含めナマの舞台全般が好きでほぼ毎週仕事が休みの土日は、西へ東へと移動して楽しんでいました。スケジュール手帳にびっしりと予定が入っているのですが、たまたまその日は空白があって、「なにかやってないかな?」とネットで「チケットぴあ」の検索をかけていたら、「舟イメージ 4木一夫」の文字が目に入りました。これが、運命の「出逢い」だったんですね(笑)「絶唱」が聴けるかも・・・・今思えば、それが最大と言えば最大の動機だったのかも知れません。「舟木一夫」より「絶唱」のほうが私を惹きつけたということは、それほど「絶唱」が私の人間形成にとって大きなものだったのでしょう。舟木一夫というスターは46年の間はほとんど私の視界の中にはいなかったと言っても過言ではないのですが、園田順吉さんはずっと私の心の奥深くに住んでいました。
    ところが・・・46年後に「再会」した舟木一夫という人は、園田順吉の46年後の面影をそのままに体現したかのように私の前に現れて下さったのです。まるで雷に打たれたような嬉しい衝撃でした。
    言葉では説明できないのですが、「絶唱」で中学生だった私を感動させて下さっ舟木さんは、46年後も私のその時の感動の想いを裏切らない空気感を纏っていらっしゃいました。しかも逞しく大らかな魂を持つもっともっと人間として成長した順吉さんになっていると思ったのです。
    現実の舟木一夫という人を全く知らないで過ごしてきた46年間でしたが、園田順吉の46年後を照らし合わせることができたということは私にとって長い年月離れていた舟木さんにあっと言う間に再び近づくことの大きな助けになりました。その後、いろんな資料を読み、「絶唱」が舟木さんご自身の強い意志によって作られた作品であることを知り、ますます舟木一夫という人への信頼や尊敬の気持ちが私を捉えました。
     
    舟友さんが今回、私の拙いブログの「紹介動画」を作成して下さったことへの御礼としてあらためて、なぜ私が舟木一夫さんにこれほど惹かれ触発されるのか、自分自身の気持ちの確認の意味も込めての想いをくどくどとまとめてみました。

                     
     
    イメージ 8れんげ草の咲くさんぽ径~舟木一夫の世界
     
    花々と星々と 空と海
    鳥の声 虫の音色
    私の五感を震わせる
    森羅万象にも似た
    あなたの歌声 そして佇まい
    力強い魂の輝きは
    私に限りない勇気と
    過ぎ去ったあの日の夢を
    届けてくれました
    両手いっぱいの
    ありがとうの言葉を
    あなたへ
     
     

     
     
    春日局:プロフィール
    大好きなものや気にかかることがたくさんありますがこちらのブログでは「舟木一夫」さんをメインに据えて、彼の歌や彼の言葉など「舟木一夫」をキイワードにしたあれこれをジャンルにとらわれず思いつくままに書き綴っていきたいと思います。
    ​道端でふと目にした「れんげ草」に寄せる思いのように、私の心の散歩道の気儘な覚え書として記していくことになるでしょう。
    ​*プロフィール写真の「れんげ畑」のセレクトもタイトルも私のお気に入りの舟木さんの自作曲「れんげ草」からいただきました。
     
    右下のこの写真も某大先輩の舟友さんが作成して下さった名刺に使っているお写真です。この写真のセレクトからレイアウトデザインも全てお世話になりました。本当にたくさんの舟友さんの優しさとご親切に囲まれ、舟木一夫という人の偉大さを日々痛感しています

    イメージ 5れんげ草 上田成幸 作詩・作曲
    (アルバム「​WHITEⅢ」収録 1998年発売)
     
    愛する人の胸で
    夜明けの雲をみたい
    まるで初恋の 少女のように願う
    恋手紙(こいぶみ)のひとつさえ
    書けぬまま
    い・の・ちを花びらに
    宿せるものならば
    あ​なたのふるさとの
    小さな れんげ草
    あなたがもしも・・もしも
    ふりむく時が来たら
    かたく瞳(め)をとじてそっと髪をほぐし
    美しく見えるよう
    祈るだけ

    い・の・ちを花びらに
    宿せるものならば
    あ​なたのためにだけ
    こぼれる れんげ草
     
    イメージ 6い・の・ちを花びらに
    宿せるものならば
    あ​なたの夢に咲く
    ほのかな れんげ草
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    舟木さんのオリジナル曲ではありませんが、アルバム「花もよう」
    (1976年10月発売)に収録されている「れんげ草」(ビリー・バンバン)
    も舟木さんならではの世界に誘われるやさしさあふれる歌唱です。
    ブログ紹介動画では、この曲もBGMとして流れます。
     
    イメージ 7れんげ草 作詩・作曲:安東久
     
    山のふもとの 小さな村に
    咲いたかわいい れんげ草よ
    おぼえているかい
    あの娘のことを
    えくぼが かわいい娘だったね
    黒いひとみで ほほえんで
    れんげ草を ぼくにくれたっけ
    あの日はきりが かかっていたね
    おぼえているかい
    れんげ草
     
    おぼえているかい あの日のことを
    おぼえているかい れんげ草よ
    あの娘のおとした 涙のことを
    えくぼに 真珠がおちてたね
    あの娘のかたに 手をおいて
    うつむいたまま ぼくにくれたっけ
    あの日もきりが かかっていたね
    おぼえているかい 
    れんげ草
     
     
    私のブログの第一回目の日記は昨年の3月6日にスタートしました。もうすぐ丸一年を迎えます。
    思いつくまま、気ままに書き散らしておりますが、毎日ご訪問下さる皆さま、あたたかなコメントをお寄せくださる皆さまに励まされて、これからもできる限り「舟木一夫の世界」を楽しくさんぽしていきたいと思っています。これかもどうか、よろしくお願いいたします。

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    2014年2月13日
    メルパルク大阪

    14時30分
    18時
    各回約90分


    携帯からなので取り急ぎセットリストです


    開幕10分くらい前に舟木さんが幕前に登場してふれこんスタイルのプレゼントタイムからスタートしました。


    藍色と薄墨色の地色の切り替え仕立てにそれぞれベーズリー風と薔薇の花のような模様が入った細身のシャツにブルージーンズが若々しくいつもながらステキな私服姿の舟木さんを拝見するのもオフィシャルコンサートとは違った楽しみの時間です。


    いよいよ開演!
    淡いブラウンのスリーピースに同系色のやや濃い目のブラウンのソフトな感じのシャツ、シューズも明るいブラウン系で胸にはペンダント


    セットリスト

    ふれ・コン
    BEST SELECTION
    パート?

    日本の名曲たち
    ~船村徹スペシャル

    あの娘が泣いてる波止場


    柿の木坂の家

    別れの一本杉

    どうせひろった恋だもの


    女の宿

    哀愁のからまつ林

    さだめ川

    矢切の渡し

    悦楽のブルース

    女と男のブルース

    ブンガチャ節

    ダイナマイトが150屯


    王将


    波止場だよ お父っつぁん


    哀愁波止場

    ひばりの佐渡情話

    なみだ船

    兄弟船

    風雪ながれ旅


    昨年の6月の新橋演舞場の50周年ファイナルの舞台公演の際のサンクスコンサートで歌われた中の船村徹さんの作品をメインに構成されたコンサートでした。

    2月6日の大宮ソニックシティホールの感動冷めやらぬままにふれコンに突入した私ですが、言葉もないほどの熱くパワフルなステージにすっかり呑み込まれてしまいました。
    舟木さんて一体何者?ていうしかない!


    プレゼントのペーパーバッグの中は多分95%がチョコレート… バレンタインデー前日ですもんね(笑)


    詳細はまた後日に



    終演後はタクシーで帰られた舟木さんをメルパルクの角の交差点でお見送りできました。

    手を振って下さる舟木さんにみんなで「お疲れさま~っ!」

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    イメージ 12月6日の大宮ソニックシティでのコンサートの翌日も大雪・・・そして13日の大阪メルパルクでのふれ・コンの翌日も大雪・・・災難をすり抜けるようなタイミングで2014年のコンサートのスタートをきることができて本当に幸運でした。私は13日の昼・夜とも拝見して、近鉄の大阪難波を20時半の特急に乗って無事に帰宅できました。大宮での舟木さんの今年の快調なすべり出しに、なんだか細胞のひとつひとつが若返るという、あの、イメージ 2先ごろの大発見の「STAP(スタップ)細胞」のことを思い出してしまいました。50周年を迎えられた頃から舟木さんと遅すぎる「再会」を果たした私ですが、少なくとも私がこの一年半ほど毎月のように拝見している舟木さんのコンサートでのご様子は、歌声も佇まいも、どんどん若々しくなっていらっしゃるように思えます。これはホントに不思議なミラクルが起こっているとしか思えません。後援会主催のコンサートということも、さらにリラックスした雰囲気が会場に漂っていて、オフィシャルコンサートのいい意味の緊張感に満ちたものとはまた異なって二者二様の切り口が楽しめます。一部制のツアコン(今年は4箇所だけですが)と二部制のシアターコンサート、そして後援会主催のちょっとラフなコンサートというバラエティがあることも舟木さんご自身のステージの構成の工夫にメリハリがついて、変化に富んだローテーションで回っていくのが新鮮味もあっていいのでしょうね。そして今年はさらに「BIG3」という企画もたくさんはさまっていて、下半期には一ヶ月公演も二か所で開催されますから舟木さんは例年よりハードなんだろうと思いますが、6日と13日のステージを拝見していると心配は無用かな・・という頼もしい気持ちになってきています。では、いつものように私なりにまとめたコンサートれぽを記していきます。
     
    イメージ 11FRIEND CONCERT No.73
    KAZUOのわがまま選曲
    日本の名曲たち~船村徹スペシャル
    14時30分  18時  各回約90分

    バレンタインデー前日でもあり、プレゼントのペーパーバッグの中は多分95%がチョコレートだったようです。紙袋の中を時々のぞいては私たち客席の方に向かって紙袋を指さしながら「これもチョコレート」とサイレントで口だけ動かして報告する舟木さんですが、これまでだってバレンタインのチョコレートなんて山ほどもらっていらっしゃるんでしょうが、やっぱりとても嬉しそうなお顔でした。
    昼は約10分くらいかかって受け取られ、夜は7分くらいだったかな?とにかくステージのテーブルの上はこの日もプレゼントでいっぱいでした。
    いよいよ開演!
    淡いブラウンのスリーピースに同系色のやや濃い目のブラウンのソフトな感じのシャツ、シューズも明るいブラウン系で胸にはペンダント。
     
    つものように舟木さんのトーク部分はピンク文字です。昼と夜をまとめています。
    曲のタイトルの後ろの()内はオリジナル歌唱の歌手のお名前(敬称略)と発売年

    今回のコンサートのテーマは「船村徹スペシャル」ということです。舟木さんにとって恩師である作曲家の遠藤実氏と並んで、ご縁もご恩も深い船村徹氏ですが、私は、実のところ、遠藤氏も含めて失礼ながら歌謡曲の作曲家のことについては、ほとんど何も知らないことばかりですのでこれを機に、船村氏のことを少しばかり付け焼刃ですが、ちょっとだけお勉強させていただきました。
     
    イメージ 12船村 徹(ふなむら とおる、1932年6月12日 - )
    日本の作曲家。日本音楽著作権協会(JASRAC)名誉会長、日本作曲家協会最高顧問。本名は福田博郎(ふくだ ひろお)。歌謡曲作曲家の大御所として知られ、手掛けた曲は5000曲以上にのぼる。
    栃木県塩谷郡船生村(現塩谷町)出身。父親は獣医だった。栃木県立今市中学校(現・栃木県立今市高等学校)、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科卒。
    大学在学時はまだ駐留米軍が数多くいた時代であり、船村は米軍キャンプ専門のバンドでそのリーダーをつとめたこともあったという。大学在学時に、作詞家の高野公男と組み作曲の活動を開始した(高野は1956年に肺結核のため、26歳の若さで死去)。ただ、高野とともに、生活は困窮を極め、バンド・リーダーのほか、流しの歌手なども経験する。作曲家としての本格的な作品は「別れの一本杉」(歌・春日八郎・1955年発表)。その後も、「ご機嫌さんよ達者かね」、「あの娘が泣いている波止場」(歌・三橋美智也)などが連続ヒットした。1956年、キングレコードからコロムビアレコードに移り、「柿の木坂の家」、「早く帰ってコ」(歌・青木光一)が大ヒット。「王将」(歌・村田英雄)は戦後初のミリオンセラーを記録した。
    1993年、日本作曲家協会理事長に就任し、1997年に吉田正の後を受けて第4代会長に就任、2005年に遠藤実へバトンタッチするまで務めた。1995年、紫綬褒章受章、2008年、文化功労者。
    作曲家としての本格的な作品は「別れの一本杉」(歌・春日八郎・1955年発表)。その後も、「ご機嫌さんよ達者かね」、「あの娘が泣いている波止場」(歌・三橋美智也)などが連続ヒットした。
    1956年、キングレコードからコロムビアレコードに移り、「柿の木坂の家」、「早く帰ってコ」(歌・青木光一)が大ヒット。「王将」(歌・村田英雄)は戦後初のミリオンセラーを記録した。1993年、日本作曲家協会理事長に就任し、1997年に吉田正の後を受けて第4代会長に就任、2005年に遠藤実へバトンタッチするまで務めた。1995年、紫綬褒章受章、2008年、文化功労者。

    参考資料として以下の書籍から一部抜粋し、コンサートれぽの流れの中に船村氏の御自身の言葉を引用して織り込ませていただきました。
    私の履歴書 船村徹  ~歌は心でうたうもの~ 
    日本経済新聞社刊 (2002年9月20)
     
     
    イメージ 13あの娘が泣いてる波止場(三橋美智也/昭和30年) 作詩:高野公男
     
    思い 出したんだとさ
    逢いたく なったんだとさ
    いくらすれても 女はおんな
    男心にゃ 分かるもんかと
    沖の煙を 見ながら
    ああ あの娘が泣いてる波止場

    「歌は心でうたうもの~船村徹 私の履歴書」より抜粋
    ~共作(高野公男作詩、三橋美智也歌唱、)第二弾は「あの娘が泣いてる波止場」。この曲はレコードのB面に入っていた。いまはCDとかMDとかで片面に全曲が収録されているが、昔のレコードにはA(表)面とB(裏)面の区別が厳然とあった。B面は付け足しみたいなものだったのである。ところが、発売されてみるとA面の曲を差し置いてヒットした。~中略~定型詩ばかりだった歌詞の世界に初めて破調を持ち込んだのだ。「日本の歌謡界に新しい波を作った作品」という好意的な評価があった。~

    今回は、一部変わってますが、去年のサンクスコンサートで歌った船村スペシャルということで・・
    それにしても寒いですねー・・・今、引っ込んでちょっと袋の中を見たらチョコレートがいっぱい入ってました。船村先生は遠藤先生の先輩にあたる方で、古き良き時代の最後の方・・「大家」といわれるのを嫌う方で気取ったところがひとつもない・・そんな船村メロディーの世界を今日は楽しんで下さい。
    船村先生のメロディーにはネバリがあって、歌詩は悲しくてもメロディーは弾んでいるという「浮かれ節」若い頃にはこなしきれないものがあります。ふだんとちがって思いっきり演歌チックにいきます。

    柿の木坂の家(青木光一/昭和32年)

    別れの一本杉(春日八郎/昭和30年)  作詩:高野公男
     
    泣けた 泣けた 
    こらえきれずに 泣けたっけ
    あの娘と別れた哀しさに
    山のかけすも鳴いていた
    一本杉の 石の地蔵さんのよ 村はずれ

    イメージ 14「歌は心でうたうもの~船村徹 私の履歴書」より抜粋
    ~当時のレコード会社には実に良心的なところがあって、どんな作品を出すかについて厳格な選考が行われていた。作ったから売るという安易な姿勢ではなく、いい作品を世に出すのだという確固とした方針が貫かれていた。だから、ボツになったりレコーディングを見あわせてお蔵入りになった作品が大と積み上げられていた。私たちの作品もたくさんお蔵入りになっていた。その中に私と高野の作品もあった。「泣けたっけ」である。「泣けたっけ」は新譜決定会議で春日さんの作品に選ばれた。~中略~「泣けたっけ」という原題に赤い棒線が引かれ「別れの一本杉」という新しい題名が書き加えられている。~
     

    「別れの一本杉」は船村先生の最初の大ヒット曲。昭和30年ですから僕はリアルタイムで11才で聴いた。船村先生が23才の時の曲、今の23才では考えられませんね。船村先生は遠藤先生と同い年で、僕のひとまわり上の申年。同じ申年なので通じるところがあったのか遠慮なくものを言ってました。申年というのは頭がいいかわるいかのどっちか・・私は後者の方ですが・・それに器用だけど飽きっぽい(後ろを振り向いて)バンドのメンバーはあんまり演歌は得意じゃないけど、演歌チックにすすめて行こうかと・・・ここは、女唄を女になったつもりで・・・
     
     

    どうせひろった恋だもの(初代コロムビアローズ/昭和31年)

    おんなの宿(大下八郎/昭和39年)

    哀愁のからまつ林 (島倉千代子/昭和34年)作詩:西沢爽
     
    涙あふれて はり裂けそうな
    胸を両手で 抱きしめる
    みえないの みえないの
    背のびをしても
    あゝ あの人は 行ってしまった
    からまつ林

    「哀愁のからまつ林」イントロから何からきちっと丁寧に書かれてる。それなのに3分30秒前後でおさまってるんですね。50周年の時に船村先生が書くよ(舟木さんの50周年のお祝いに)とおっしゃって下さったんですが、船村先生のところにもっていける詩がない・・・歌い手、曲、詩の三者のバランスがむつかしい・・これはお千代姉さんの歌ですが船村先生はその歌い手の音域をメいっぱい使って作る。昔は作家(作詩家・作曲家)はレコード会社の専属制だった。今は専属制がなくなった。~たくさんの作家の名前を具体的に挙げて~だから舟木一夫の歌を聴くとこれはどの作家のかがわかった。石本美由起作詩で船村先生独特の世界のメロディーの曲をふたつつなげて・・・
     
    イメージ 15さだめ川 (ちあきなおみ/昭和50年)
    船村氏のギター伴奏による
     
     
    矢切りの渡し(ちあきなおみ/昭和51年)

    船村先生は、メロディーを丁寧に追わなくていいよと・・例えば「その人は昔」などコードの中で漂っていいよというタイプ・・遠藤先生はこういう歌を歌ってほしいから、その通りに歌ってくれよというタイプで古賀(政男)メロディーの後継者という作曲家・・船村先生からそれまでの演歌のメロディーが変わったという・・吉田(正)先生もそう・・榎本美佐江さんの「後追い三味線」などがそういう曲・・そして一気に開花したのが「♪潮来の伊太郎♪(とちょっとモノマネ風に歌ってみる舟木さん)客席が笑いでどよめくと「ホントですよ、これ!」遠藤先生も「高校三年生」で一気にハレツするということになった・・・
    こないだ先生のギターで歌ってきました(NHK・BSの番組録画)先生はテレ屋だからわざと乱暴な口をきくんですが、大変に情のある方ですね。船村先生や遠藤先生はあまり歌い手と酒を飲みに行くということはなかった。僕は一回だけ船村先生に食事をおごってもらった・・・僕は酒でなくてコーラ飲んでましたが(笑)次は珍しい方に入るムード演歌を・・
     

    悦楽のブルース(島和彦/昭和40年)

    女と男のブルース(島和彦/昭和41年)
     

    島和彦という人が出てきた時に、船村先生がお書きになった歌です。年が明けて今年は70(才)になります。70までは数えますけど、あとは数えません。70過ぎたら18(才)にもどる(笑)此の頃まず思うのは、歌を歌うためだけに生まれてきた・・ホントにそれしかできなかった。流行歌手になってよかった。流行歌の奥ゆきに気づき始めたのは60(才)過ぎてから・・流行歌はなくならない方がいい。寄席の世界もなくなってきたでしょ。古典落語も何百年の歴史がある。僕らはいい時代にお互い様に流行歌に触れることができたという感じがします。今度の「遠藤実スペシャル」(シアターコンサート)をきっかけとして日本の名曲をせっかく昭和といういい時代に歌い手になれたんですから~今の歌は「平成の演歌」~日本に本当の貧しさがあった頃の演歌、~今は、そんな貧しさなんかないですから流行歌が棲息する場所がなくなってしまった。昔(昭和)は、男と女が袋小路に迷い込んでしまうという独特の情があった。

    ブンガチャ節(北島三郎/昭和37年)
     
    ダイナマイトが150屯(小林旭/昭和33年)

    これなんか隠れた名作じゃないですか。「恋の病にお医者を呼んで キュキュキュキュキュキュ 氷枕で風邪ひいた ブンガチャチャ ブンガチャチャ」と歌詞を歌うように言って)・・ここまで無責任な歌ないですね(笑)遠藤先生の歌では、「ダンチョネ節」なんか・・・これは小林旭さんのキャラもありますが・
    西條八十のオリジナルを歌っている歌い手が舟木一夫ひとりになったという巡りあわせになっていくというのはある種の幸せとも感じるんですが・・・
    イメージ 16・・・とおっしゃって西條八十・船村徹コンビによるアルバム・歌謡組曲「雪のものがたり」の中の「♪うしろ立山 なだれはこわい 恐い こわいと ししさえ逃げる♪」とまたもや私の好きなこの民謡調の一節を見事なアカペラで披露して下さいました。大宮ソニックシティ大ホールでの「吉野木挽唄」の感動がよみがえりました。舟木さんは若い頃から民謡も素晴らしい独自のセンスで歌いこなしていらして民謡アルバムの音源もあります。青春歌謡や都会派の歌や抒情歌のみならずこういった日本の土の匂いのする素朴な世界もまた舟木一夫の歌い手としての歌詩の咀嚼力や表現力を示すものとして特筆すべきジャンルだと思います。
    舟木さんのコンサートに通いつめていると、こうしてレコードで聴いて感銘を受け印象深く心に刻まれている歌を思いがけず今の舟木さんのナマのお声で、しかも思い入れ深い歌唱で聴けるという幸せに遭遇できるのです。トークの中でたまたま舟木さんの心に浮かぶ様々な曲に出逢えることは望外の喜びです。「船村徹スペシャル」というタイトルに、こんな感動的な「スペシャル」のオマケがついてるなんて最高でした。
     
     
    ここで単独にしたのは、西條八十・船村徹ゴールデンコンビの「王将」・・・西條先生が将棋盤に駒を置いて吹いてみて飛ぶかどうかやってみて・・飛んだんだよ、コレが・・とおっしゃった(笑)

    王将 (村田英雄/昭和36年)

    「歌は心でうたうもの~船村徹 私の履歴書」より抜粋
    ~私が欧州に向かった昭和三十六年というのはニール・セダカの「カレンダー・ガール」やコニー・フランシスの「ボーイ・ハント」といったロッカ・バラードが人気を得ていた。演歌や歌謡曲は依然として最大の潮流ではあったが、次第に洋楽が浸透しつつある状況だった。邦楽盤はリバイバルでお茶を濁すような面さえあった。「何をやっているんだ」評論家から作曲家や作詞家に対する叱咤とも皮肉とも聞こえる声が出ていた。私もそんな風潮に内心では反発を感じていたが、では具体的に何をすればいいのか。考えているうちふと浮かんだのが「純日本式でいこう」ということだった。~中略~歌手は村田英雄さんに決めてあった。古賀政男門下だったが浪曲出身の村田さんこそ「反時代的」な作品を歌うのに最も適していると思ったからだ。斎藤ディレクターは西條八十先生に将棋の坂田三吉物語を詞にしてほしいとお願いした。先生が将棋のことをまったくご存じないことは百も承知だったが、そんなことはどうでもよかった。やがて「吹けば飛ぶよな 将棋の駒に」で始まる「王将」の詞ができてきた。私は、「吹けば飛ぶよな演歌の旋律(ふし)に賭けた男を笑わば笑え」と読み替えて、まるで自分の心を詠んでいるような詞に素直な感動を覚えた。~中略~作品ができたとき西條先生は「こんなレコード誰が買うんでしょうね」とおっしゃっていた。社内視聴会でも不評だった。だが、私は成算とまでは言わなくと可能性は感じていた。~
    *「王将」は、発売から約一年後の昭和37年12月に日本レコード大賞特別賞受賞
     
                                       今回の舟友さんの花束のプレゼントもこんなに豪華絢爛!

    イメージ 17日本の四行詩の七五調のころがり・・素晴らしいですよね。こういうのはツボにハマるとデカイんですよね。僕はツーコーラス目が好きなんですが船村先生は15分くらいで書いた。いい歌はスルスルっとできるんですね。歌い手もあまり考えずに、無意識で歌ってる方がいい歌が歌える。
    いつまでもつか・・ある日突然きたら困るなァ・・・こういう話は決して縁起の悪い話ではない・・・そういう日常会話はむしろ必要・・・僕は持ち歌は、自分に合わせたものだからある程度付き合っていけると思うんですが、他の人が歌ってヒットした曲をいつまで歌えるか・・オフィシャルのコンサートでそういう歌をのっけていくのはコワイですが、みんなでやっていけばいいんじゃないかなと・・(拍手)
    船村先生とひばりさんの出逢い・・・いかにも狙って打ってヒットしたという感じの曲
     
    波止場だよ お父っつぁん (美空ひばり/昭和31年)

    哀愁波止場(美空ひばり/昭和35年)

    ひばりの佐渡情話(美空ひばり/昭和37年) 作詩:西沢爽
     
    イメージ 18佐渡の荒磯の 岩かげに
    咲くは鹿の子の 百合の花
    花を摘み摘み なじょして泣いた
    島の娘は なじょして泣いた
    恋は・・・つらいと
    いうて 泣いた
     
    波に追われる 鴎さえ
    恋をすりゃこそ 二羽で飛ぶ
    沖をながめて なじょして泣いた
    島の娘は なじょして泣いた
    逢えぬ・・・お人と
    いうて 泣いた
     
     
    佐渡は四十九里 荒海に
    ひとりしょんぼり 離れ島
    袂だきしめ なじょして泣いた
    島の娘は なじょして泣いた
    わしも・・・ひとりと
    いうて 泣いた
     
    「歌は心でうたうもの~船村徹 私の履歴書」より抜粋
    ~率直に云えば彼女の表現力は私の感性の先を行っていた。こんな歌手にどんな曲を書けばいいのか。少しでも手を抜けば、歌唱で完膚なきまでにやりこめられるに違いない。ひばりというブラックホールに巻き込まれ、自滅するのではないかという恐怖に似た思いが胸をかすめた。ほかの作曲家がどう感じていたかは知らない。しかし私にとって彼女との出会いは不世出の歌手「美空ひばり」との戦いの始まりだった。~中略~私が書き、ひばりさんが歌った作品は五十曲近くになる。その一曲、一曲が真剣勝負だった。~中略~平易な云い方をすれば、「どうだ、このメロディーを歌いこなせるか」「フン、こんなもんかしら」といった無言の戦いであり、結果として全く新しいメロディーの創作や従来なかった歌い方の発見にもつながった。例えば昭和35年に発売された「哀愁波止場」、「夜の波止場にゃ 誰もいない」という歌いだしは高音の裏声から入る。この間の高低差は1オクターブである。
     
    今はもう通じない言葉・・荒磯(ありそ)なんて言っても「冬の稲妻(アリスとアリスのヒット曲をかけた?)
    かと思っちゃう(笑)船村先生が、「どうしても作曲家の宿命なんだよ」とおっしゃってたこと・・・例えばスリーコーラスの曲の場合、2番の歌詩がストーンと入ってきたら、2番の詩で曲を作る。そうすると1番、3番の歌詩はメロディーの中に押し込まれるような形になるということを「荒磯」を「ありそ」と歌わせてると舟木さんは説明しようとなさったのかな?と・・・私の解釈、合ってるかしら(笑)
    イメージ 3船村氏も上記の「私の履歴書」で書いていらっしゃいますが、高低差1オクターブというハード面でも一筋縄ではいかない技量を要し、しかも情感と叙景の描写力というソフト面での技巧と人間力を求められる「ひばりの佐渡情話」・・・頭に「ひばりの」と冠されているだけでもおそらく歌い手ならだれでもがビビってしまうであろうこの難曲を御自身のカラーにたっぷりひきつけて、客席の空気を震わせるような舟木さんの歌唱にまたしても不覚にも涙がこぼれました。

    あんまりこういう歌をつなげると聴いてる方もしんどいですから・・最近ね、歌つなぎがしんどくなってきた。
    ラストスパート三つ・・船村先生は、僕が知る限りでは演歌の中でもっとも強いメロディーをもってる人だと・・そういう力強いメロディーの三曲
     
    なみだ船(北島三郎/昭和37年) 作詩:星野哲郎
     
    「歌は心でうたうもの~船村徹 私の履歴書」より抜粋
    ~ここで星野さんとつくった「なみだ船」にまつわる話をしよう。この曲は北島三郎が歌って大ヒットしたが、世に出るまでは紆余曲折があった。~中略~デビュー曲はどうするか。そのころ渋谷の流しの間で「キュキュキュ節」というのがはやっていた。この曲を採譜して編曲し、星野さんの詞で「ブンガチャ節」という曲にした。飲み屋街で自然発生的にはやった歌だからもともとヒットする要素はあったが、発売すると予想以上の売れ行きでようやく北島にも可能性が出てきた。ところが、思いもかけないことが起こった。「キュキュキュ」という囃し言葉が猥褻であるということで放送禁止になってしまったのである。これがなぜ猥褻なのかいまでもわからないが、ともかく放送倫理規定にひっかかると言われればどうしようもなかった。そこで登場するのが「なみだ船」である。~中略~その裏で私もある挑戦をしていた。導入部に高音のメロディーをもってきて、歌いだしで聴く者に強烈なアピールをするという手法を試みたのである。「なみだ船」の場合は「なーみだのーおおおおー」の部分だが、中低音で勝負していた従来の歌謡曲の中で異彩を放ったことがヒットにつながったのならば、私の試みは成功したことになるのだろう。~中略~星野さんとはその後「兄弟舟」「北の大地」「風雪ながれ旅」といった曲を世に送り出した。星野さんと作品を作るとき、細かい打ち合わせはしない。私が楽曲のイメージを伝えるだけで十分なのだ。~
     
     
    兄弟船(鳥羽一郎/昭和57年)
     
    風雪ながれ旅(北島三郎/昭和55年)
    船村徹歌唱

    イメージ 8
    なお「歌は心でうたうもの」巻末に「船村徹主要作品リスト」が付記されています。その中から舟木さんのために作られた楽曲をリストアップしました。70作品以上あります。
    私の知らない未発表、未発売の作品がたくさんあることに驚きました。何度か改作・改題されている曲もあるように思います。「星の下をゆく」~「星の下北へ帰る」は最終的には「星の夜北へ帰る」に改作・改題されたもののように思われますがどうでしょうか。
    年代順ではアルバム「日本の四季」はまだ舟木さんがデビューして間もなくに船村氏が西條八十の詩を得て組曲として書かれ、7年ほど後に舟木さんの歌唱でアルバム化され発売されたものでしたね。
    昭和39年から52年の「春哀し」「愛を探しに」まで、こうしてあらためてたどっていくと舟木さんの青春の季節
    の背景には船村氏がいつもいらしたことがわかります。
     
                        丘灯至夫氏と船村徹氏と舟木さん。「夏子の季節」レコーディング打ち合わせ
     
    イメージ 4
     
     
    船村徹主要作品リストから舟木さんのために作られた曲 作曲年代順()内は作詩者
     
    イメージ 7日本の四季(西條八十)
    夢のハワイで盆踊り(関沢新一)
    星の下をゆく(関沢新一)
    星の下北へ帰る(関沢新一)
    若い魂(関沢新一)
    わすれ花(安部幸子)
    谷のわき水(安部幸子)
    東京百年(丘灯至夫)
    湖畔の日記(石本美由起)
    六月のギター弾き(猪又良)
    チックタックのブルース(土井朗)
    あいつ(三浦康照)
    青春太鼓(関沢新一)
    溜息のブルース(南条あきら)
    銀座すずらん通り(丘灯至夫)
    踊ろう僕と(大林郁恵/古野哲哉)
    ひとりぼっちの女の子(深沢真弓/古野哲哉)
    真珠っ子(植田梯子)
    太陽にヤア(関沢新一)
    その人は昔(松山善三)
    イメージ 9話してごらんこの僕に(丘灯至夫)
    ブルートランペット(古野哲哉)
    青春の停車場(関沢新一)
    それは白い花だった(松山善三)
    男の太鼓(関沢新一)
    南へゆこう(三浦康照)
    香港の街角で(関沢新一)
    ふたつちがい(万里村ゆき子)
    レディ・イン・ザ・ナイト(万里村ゆき子)
    a boy in the sung jown(松山善三)
    君の心が欲しいんだ(野村俊夫)
    流木の唄(野村俊夫)
    南国の舟唄(吉岡治)
    リラの雨ふる(西沢爽)
    唇に言葉を(松山善三)
    かくれんぼ(寺山修司)
    川に捨てたギター(寺山修司)
    大平原の恋(野村俊夫)
    太陽に向って駆けよう(関沢新一)
    あいつと私(丘灯至夫)
    夏子の季節(丘灯至夫)
    心をこめて愛する人へ(松山善三)
    じっとしてると恋しい(松山善三)
    夕笛(西條八十)
    ホロッポは愛の歌(松山善三)
    なぜ泣いてるの(松山善三)
    夜霧の果てに(大倉宏之)
    夢の中の恋人(島田幸一/古野哲哉)
    イメージ 10俺は坊ちゃん(西條八十)
    喧嘩鳶(村上元三)
    雪のものがたり(西條八十)
    夢の中だけの二人(島田幸一)
    きみぼく青春の宴(丘灯至夫)
    花火(鹿倉義一)
    血斗桜田門(横井弘)
    津和野川(吉田旺)
    若者は何処へ行く(横井弘)
    アンジェラスの鐘(二条冬詩夫)
    あなたの故郷(石本美由起)
    さすらい演歌(横井弘)
    サルル岬(横井弘)
    帰郷(横井弘)
    サンチャゴの鐘(横井弘)
    夏子(古野哲哉)
    結婚(丘灯至夫)
    友情(丘灯至夫)
    むかえ火(吉田旺)
    星の夜北へ帰る(関沢新一)
    惜別旅(吉田旺)
    愛を探しに(猪又良)
    春哀し(猪又良)
     
     
    イメージ 5舟木さんがこの日のトークで「一回だけ先生に食事をおごってもらったことがある」とおっしゃっていましたが、もし舟木さんのご記憶が確かで一回だけだったのなら、舟木さんと船村氏が一緒に食事をなさったということが書かれている資料があります。
    下記のリストの中で一番最後の「春哀し」(昭和52年11月発売)の曲ができた時のエピソードについて船村氏が舟木さんの「15周年リサイタル~限りない青春の季節」(1977年11月1日~3日/東京郵便貯金ホール)のパンフレットに寄稿なさっています。以下に抜粋してご紹介します。
     
    「鎌倉山の夜」 ~ 「春哀し」を作曲して 船村徹
     
    「やっぱり、そうしよう・・九月になれば江の島や由比ヶ浜のあたりも、だいぶ落着きをとりもどすからねぇ・・・鎌倉山にもなじみの店があるんで、ぜひそこへも案内したいんだ。その時季になれば、あの山にもきっと秋の花が咲きはじめるし。待ってるから、かならず来てよねぇ」
    約束のその日は、朝から良く晴れて残暑はいささかあったけれども、海からやって来る湘南の風はとてもおだやかであった。私は、早くから彼を待った。彼を待つためだけの一日であった。しかし彼はなかなかあらわれなかった。サンルームにさし込む西陽がめっきり細くなった時分になってやっと彼は顔を見せた。~中略、「彼」というのは、もちろん舟木さんのことです。~店に着いて座敷にすわると、山塊の持つ静寂が快くせまって来た。仏蘭西料理を、日本的にアレンジしたこの店のメニューは、彼も気に入ってくれたようであった。私は少年のようにはしゃぎ、無作法に食べ、気ぜわしく飲み、くどくどとしゃべり、そして酔った。
     
    イメージ 6この愛におぼれたら 
    こわいけどおぼれたい
    江の島の春の夕ぐれ・・・
    「・・ようし!出来たぞ! イケル!この歌をわからん日本人なんて俺はもう相手にゃセン!この抒情の世界こそ彼のモノなのだァ!」
    この愛におぼれたら
    こわいけどおぼれたい
    江の島の春の夕ぐれ・・・
    肩をゆさぶりながら唄いつつ、海へ続く細露地を私はひとり歩いた。・・・・そうだよ、これが彼のものだよ、この作品こそ、舟木一夫の世界なんだよ!
     
     
     
    船村氏の作品に賭ける情熱と舟木一夫という若い歌い手の持つ歌の世界観へ想いを寄せる情愛があふれる文面です。それぞれの歌い手の個性と美点を鋭い観察眼と感受性で把握した上で、愛情をもってその魅力のすべてを引き出そうとする船村氏の作曲家という表現者としての力量と、情の深さがこうして数々の名曲を生みだし大ヒットさせる機動力となったのだと思います。そして、船村徹という才能が世に送り出した歌と歌い手もやはり昭和と言う時代背景なしには存在し得なかったのでしょう。

    最後に「歌は心でうたうもの~船村徹 私の履歴書」の冒頭の「はじめに」という文章の中から船村氏の歌謡曲作家としての心意気が印象深く伝わってくる一節をご紹介します。
     
    ~歌は心でうたうものである。テクニックがどんなに優れていても、心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く者を感動させることはできない。日本の音楽教育は明治以来、西洋音楽至上主義の歴史を歩んできた。それもテクニック重視で、心をうたうことを教えてこなかった。のみならず、邦楽全般を西洋音楽より下に見る風潮が広く社会を覆い、中でも町の片隅で黙々と生きる人々の哀感をうたう歌謡曲や演歌を蔑む傾向さえある。私の作曲家人生はこうした風潮に対する反逆でもあった~
     
    歌手・舟木一夫にとっての船村先生、そしてまた作曲家・船村徹にとっての歌手・舟木一夫、昭和の歌謡界の一時代を共に築いてこられたお二方の胸に去来するもののほんの一片でも、同じ昭和を生きてきた私たち世代が共有し、これからも舟木さんの素晴らしい表現力と歌唱で楽しませていただければこんな幸せなことはありませんね。詩と旋律と歌い手のトライアングルが力強く響き合って生まれた流行歌、ただ歌うためにだけ生まれてきた、それしかできなかったと断言なさった舟木さんでした。それはまた、歌い手としての自信に満ち溢れた言葉でもあるのだと確信できた感動的なコンサートでした。
     

     
     

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    イメージ 1舟木さんとご縁の深かった光本幸子さんが亡くなって一年が過ぎようとしています。光本さんについて、いつかブログに書いておきたいと思っていたのが、舟木さんと共演なさった松竹映画「いつか来るさよなら」のことです。
     
    光本 幸子(みつもと さちこ、1943年8月25日 - 2013年2月22日)
    東京都出身。上野学園高等学校音楽科を1962年に卒業。幼年より舞踊家の六代目藤間勘十郎に師事。勘十郎と親交のあった初代水谷八重子の目に留まり新派入りし、明治座の舞台『望郷の歌』(1955年)にて子役デビュー。1969年の映画『男はつらいよ』初代マドンナ・冬子役に抜擢され、映画初出演を果たす。
    1974年 (当時31才)に明治座・阪口祐和取締役社長(当時常務)と結婚。2男1女をもうけた。2001年8月「どうしても女優に専念したい」と57才で離婚。
     
    イメージ 10私は残念ながら、明治座での若き日のお二方の共演の舞台は観たこともなく、オークションで手に入れた当時の公演のパンフレットからのみしか、そのイメージを想像することはできません。
    映像も当時のものが、もしどこかに残されていたとしても観る機会などあるはずもなく、唯一当時の映像として残っているのは「いつか来るさよなら」だけです。でも、撮影時期としては、明治座公演が開催されていた時期と重なります。1969年12月公開ですから、昭和44(1969)年八月公演の「新納鶴千代」「与次郎の青春」の終わった後あたりからの撮影ではないかと想像します。舟木さんも光本さんも25歳くらいの時(光本さんが一歳年上)ですが、設定では光本さん演じる由里子は27歳、舟木さん演じる弘は20歳前後の大学生という、およそ七歳の年齢差となっています。ところが映画を観ていると、おふたりとも、本当にそんな年齢に思えてくるから不思議ですね。

    イメージ 2同じ年の1969年2月公開の「永訣(わかれ)」は、太平洋戦争を背景にした作品なので関心があり舟木さんと再会後、すぐにDVDを購入して観て感銘を受けました。でも、正直「いつか来るさよなら」は、舟木さんが犯罪者になるというストーリーだということが頭にあるので、むしろあまり観たいとは思わなかったのです。ところが、昨年の2月に光本さんが亡くなり、やっぱりお二人が共演された唯一の映像だから観ておかなくては・・と今年に入ってからDVDを購入して観ました。そして私が勝手に想像していたものとはかけ離れた内容で、その完成度の高さに驚かされました。
    日活の青春映画にも舟木さんはたくさん出演なさっていますが、デビュー当時のものはいわゆる青春歌謡映画という範疇で、舟木さんの清新な魅力そのものを楽しむタイプのものでしょう。「絶唱」は、舟木さんが役者としての存在感を発揮した作品で、ことに私にとっては「別格」の映画ですから、横においとくとして、それ以降の日活作品の中では、圧倒的に「残雪」に感銘を受けました。これも、観る前は「心中」ものということで躊躇しつつ観たのですが、舟木さんの俳優としての成長ぶりが感じられ、「血のつながりのある兄妹がそれと知らず愛し合ってしまった悲劇」といういくらか非現実的なシチュエーションにも関わらず「心中」に至る舟木さん演じる高彦の心理が画面の中の舟木さんの真っすぐな眼差しを見ているうちに無理なく自然にストンと胸に落ちたことに自分でも驚きました。
    この「残雪」については下記に掲載しています。↓
    http://blogs.yahoo.co.jp/ycmay26/67921051.html
     
    イメージ 13「いつか来るさよなら」は、結果的には舟木さんが主演された最後の映画ということになりました。それまでの日活の青春映画や、先に揚げた松竹の「永訣(わかれ)」のような戦争による悲恋というテーマよりもやや複雑で、なんといっても舟木さんが最後には「犯罪者」になってしまう結末ですから、当時リアルタイムでご覧になった舟木ファンの皆さまが、この作品をどのように感じ、どのように評価なさったか私としては興味深く思っています。
     
    イメージ 24事前に映画の内容のあらすじ(映画データサイト)を見ていて想像していたのと、観終わってからとはかなり印象が違ってきました。舟木さんが25歳の頃の作品ですが、弘と由里子との初めての出逢いは弘が17歳という設定で、舟木さんが学生服に学生帽で登場します。光本さんも田舎から出てきたばかりの娘という化粧っ気のないお顔です。この出逢いの場面含めて、ふたりが姉と弟のようにむつまじく、また弘が由里子を困らせるような甘えた態度をとる場面がこの作品に抒情性を持たせる役割を果たしていて、いかにも舟木一夫主演作という好印象を与えます。

    イメージ 26弘は、病院長の一人息子として何不自由なく暮らしながら、父と母の仲がうまくいかず、きっと小さな心を痛めていた少年だったのだろうという伏線がはられています。そして、その淋しさや不安を埋める存在として由里子が登場するのです。姉のようでもあり求めて得られない母の匂いも備えた優しく美しい由里子を慕う弘の想いは何一つムリがありません。そんな心のよりどころだった由里子が父の後添えになってしまった少年の苦しさと切なさを、舟木さんは実に丁寧に感受性豊かにその表情とセリフ回しのひとつひとつに弘の胸のモヤモヤと哀しみを、現しています。知らない人がこの作品を観たら舟木さんの本業が歌手だとは気づかないでしょう。イメージ 27
    やはり、舟木一夫という青春歌謡の歌い手が映画に出ているという先入観が拭えない、初期の日活映画で観る舟木さんとは、全く違う舟木一夫という俳優の力量を感じさせる作品でした。
    そして、光本さんは、この作品では27歳の由里子という女性を演じていて実年齢も26歳くらいかと思いますが、落ち着いた物腰と湿り気のある声とセリフに余韻をもたせる舞台女優としての経験が充分にモノを言っていると感じました。弘と向かい合う由里子は、イメージ 28母としての威厳すら感じさせる場面があるかと思えば、回想のシーンでは、愛らしい少女のような由里子の一面を見せます。当時の舟木さんと同年輩の日活の女優さんには、やはり由里子を演じきることはできなかったのではないかと感じました。舞台女優は演じる役柄の年齢層の幅が、映像畑の女優さんとは比べ物にならないほど広いのが当たり前ですが、年齢を重ねた女優さんが若い役を演じるというのはそれほど難しいことではないでしょうが、その逆の若い女優さんがいくらか落ち着いた役どころイメージ 29を演じるには、かなりの力量が必要だと思います。夫役の山形勲さんも本当に渋くて理知的でどっしりしていて素敵な俳優さんですが、その山形さんと並んでも光本さんは位負けしていないと感じました。おそらく光本さんにとってもこの作品はそれまで舞台で培ってこられた女優としての力を存分に発揮できた作品だったのでないでしょうか。
     
    イメージ 302012年の銀座シネパトスで舟木さんの50周年を記念して開催された「スクリーンで観る舟木一夫と時代を彩ったヒロインたち」のトークショーにゲスト出演なさった時の内容は私は存じ上げませんが、光本さんがこの作品をどのようにご自身の女優人生の中に位置付けていらしたか知りたかったと今さらながら残念に思っています。
     
     
    イメージ 31「いつか来るさよなら」公開の頃(1969年)の舟木さんの年表
    6月アルバム「ひとりぼっち 舟木一夫懐かしの歌・第三集)
    7月『ああ桜田門』(B面『恋のお江戸の歌げんか』)
    7月4日明治座公演「新納鶴千代」「与次郎の青春」開催(31日まで)
    8月『夕映えのふたり』(B面『高原のひと』)
    11月1日東京サンケイホール「舟木一夫とあなた」開催(3日まで)
    12月『北国にひとり』(B面『いつか来るさよなら』)
    12月12日東京プリンスホテル25歳誕生日パーティー開催
    12月17日松竹映画『いつか来るさよなら』公開
    12月31日第20回NHK紅白歌合戦出場『夕映えのふたり』歌唱

    以下では毎年座長公演を開催されている舟木さんの今と、光本さんをお相手に舞台人として研鑽なさった明治座公演時代のことを少したどってみます

    長い「昼寝の期間」を経て、舟木さんが「復活劇」のスタートをきったのはデビュー30周年の頃からですが、その時、舟木さんの胸中には「歌と芝居」で舞台に立ちたいという強い想いがあったと聞いています。
    そして、その想いをひとつひとつ着実に現実のものとしていかれた頃の記録を「青春賛歌」(大倉明著)の年表から確認してみます。
     
    イメージ 31992年5月:全国30会場で芸能活動30周年記念・全国縦断特別公演「銭形平次」開催
    1993年7月:名古屋・中日劇場で芸能活動30周年記念特別公演「銭形平次」開催
          9月:東京・博品館劇場で芸能活動30周年記念特別公演「瞼の母」開催
    1994年5月:東京:池袋サンシャイン劇場公演『瞼の母」開催
         このあと全国31会場「瞼の母」ツアー公演を開催
       11月:名古屋・中日劇場公演「次男坊鴉」開催
       12月:大阪・新歌舞伎座公演「はぐれ鴉」開催
    1995年4月:東京・新宿コマ劇場公演「七変化=ねずみ小僧」開催
       10月:名古屋・中日劇場公演「雨ふりお月さん」開催
       12月:大阪・新歌舞伎座公演「銭形平次捕物控」開催
    1996年3月:東京・池袋サンシャイン劇場公演「春姿=喧嘩安兵衛」開催
         このあと全国20会場で「春姿=喧嘩安兵衛」ツアー公演を開催
          7月:京都・南座公演「次男坊鴉」開催
    1997年1月:名古屋・中日劇場公演「坊ちゃん奉行」開催
          2月:大阪・新歌舞伎座公演「坊ちゃん奉行」開催
          5月:舟木一夫:松竹新喜劇合同ツアー公演「お祭り提灯」「駕籠や捕物帳」全国21会場で開催
     
    そして、ついにこの年の8月には新橋演舞場での初公演として「野口雨情ものがたり」が開催されました。
    それ以降の、舟木さんの精力的な舞台公演への取り組みは、皆さまご周知の通りかと思います。

    イメージ 4このような「歌とお芝居」の二本柱での座長公演(「座長芝居」「歌手芝居」などとも呼ばれている)は、現在
    も多くの歌手の方が開催されていて、歌舞伎や演劇の舞台とはまた異なった支持層を獲得していて、娯楽性と大衆性の最も強い興行として人気を得ているように思います。とは言え、「歌手」のほとんどは、コンサートオンリーの活動をなさっていて、むしろ俳優でありながら歌唱力もヒット曲もお持ちの方もまた、この分野に進出されていますから座長の顔ぶれも多彩で、ありとあらゆる舞台演劇のジャンルのイメージ 5俳優さんたちが出演されており、「寄り合い所帯」という印象はあるものの、逆に互いのフィールドで培った力を切磋琢磨なさっているからこそ生まれてくるクオリティの高さも期待されます。そして、それを単なる「寄り合い所帯」で終わらせるのか、それぞれのフィールドの俳優さんの魅力を最大限に引き出してより良い舞台づくりをするかは、単衣に座長の人間力にかかっているといっても過言ではないと思います。

    イメージ 6長かった「寒い時期」(お昼寝の時間)から目覚めた舟木さんが、もう一度勝負をかけたのが、「歌とお芝居」の座長公演だったということの根拠や拠り所としては、やはり二十代で経験していらした座長公演の実績があったことは明らかだと思います。
    その昭和四十年代(42年から48年)の七年間、毎年一ヶ月座長公演を勤めていらしたのが東京・明治座です。その七年間、ずっと相手役をなさってこられたのが光本幸子さんです。
    イメージ 7光本さんは当時、これからの新派の劇団を背負っていく人気若手女優として大きな期待を集めていらした頃だったと思います。今回、取り上げた松竹映画「いつか来るさよなら」が公開された直前の同じ年には「男はつらいよ」の初代マドンナとして映画に初出演されています。新派の世界のみではなく映画・演劇界にとっても磨けば光る宝石のイメージ 8ような資質を感じさせる存在だったことがうかがわれます。私自身、舟木さんと光本さんの舞台での共演のことなど全く知らずにいた時期でしたが、光本幸子さんをテレビなどで拝見して、その面差しが初代水谷八重子さんと重なることもあり鮮烈な印象を受けました。そして、あの新派の香りのする独特のしっとりしたというか湿り気のある声質と台詞回しには、映像の世界からデビューなさった女優さんたちとは一線を画したような特殊な色を感じていました。
    後に舟木さんも光本さんをテレビを見て、相手役として白羽の矢を立てたということを知り、さもありなん・・と大いに納得できるほど、当時の光本さんは輝いていらしたと思います。
     
     
    イメージ 9舟木さんが川口松太郎さん、初代八重子さんや伊志井寛さんから、何度も新派の俳優になることを勧められたということは広くに知られたことですが、もちろん水谷八重子さんの相手役ということでも具体的にオファーがあったそうですが、次代を担う若手コンビとして光本・舟木の看板を将来的に考えてのことでもあったのではないかと思います。
     

    明治座公演 
    昭和42(1967)年 「維新の若人」「春高楼の花の宴」
    昭和43(1968)年 「俺は坊ちゃん」「喧嘩鳶(野狐三次)」
    昭和44(1969)年 「新納鶴千代」「与次郎の青春」
    昭和45(1970)年 「新吾十番勝負」「日本の旋律・荒城の月」
    昭和46(1971)年 「忠臣蔵異聞・薄桜記」「新吾十番勝負・完結篇」
    昭和47(1972)年 「大岡政談・魔像」「あの海の果て」
    昭和48(1973)年 「沖田総司」「われ永久に緑なる」
     
     
     
    イメージ 11それから長いブランクの後、平成11(1999)年に光本さんは、新橋演舞場の舟木さんの座長公演「忠臣蔵異聞・薄桜記」の千春役を勤められました。明治座公演から28年ぶりの舟木さんの典膳と光本さんの千春の顔合わせが実現したのですね。この舞台だけは、幸運にも録画で拝見することができました。この公演のパンフレットには大倉明氏の舟木さんへのインタビュー記事が掲載されています。
    そこで光本さんについての質問に舟木さんが下記のように答えていらっしゃいます。
    「幸ちゃんも、この芝居は青春時代に点として残っていると思うんですよ。幸ちゃんは芸能界での幼なじみという感じがあるんですよね。どこまでいってもかなう人じゃあないですけど、お互い芝居の間尺を知っているよさっていうんですかね、幸ちゃんのくせはよく知っているし、おれのくせも幸ちゃんは知ってるっていうのがある。お互いのリズムのすきまを埋めていけるっていうのかな。それを意識しないでできる相手なんです。」
     
     
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    松竹映画「いつか来るさよなら」劇場公開日 昭和44(1969)年12月17日
     
    あらすじ(映画関連のサイトのあらすじでは不十分と思われますので私なりの補足や解釈も加えています)
     
    イメージ 15千田弘は、父・康弘の病院の看護婦・由里子に高校生の頃から秘か想いを寄せていた。しかし、運命のいたずらから、父が由里子と再婚した。弘は、慕っていた由里子とひとつ屋根の下で暮らすことはできなかった。大学生になった弘は家を出て友だちのアパートの部屋に転がり込んでいた。正義感が強く血気盛んな弘は、友だちが巻き起こすトラブルの巻き添えになって度々警察沙汰になるなど由里子の心配の種になっていた。
    弘のことを心配してアパートをたずねた由里子は、同じアパートに住むダンサーの桂子から、弘が「昔、父親の病院で看護婦をしていた人を好きだった」と言っていたという話を聞きその時初めて弘が自分を女性として慕っていたことを知って心を痛めた。
    イメージ 16弘の実母は、夫(弘の父)の病院に勤務していた医師・石垣と関係し千田家を追われ、石垣と暮らしている。その石垣は、由里子とも過去に関係をもっていたことをネタにして由里子をゆすり、病院を開業するための金の工面をするよう由里子を脅迫していた。実母も石垣と共謀して由里子を窮地に追いつめていた。そのことを知った
    弘は、由里子の過去の過ちを罵ったが、由里子は石垣に乱暴されその後も結婚を餌に関係を迫られ結局騙されていたのだと涙ながらに弁明したが弘は「親父を裏切っていることに変わりはない」と由里子を責め、全てを息子である自分の目の前で父・康弘に打ち明けるように迫った。そして翌日、由里子が弘の言った通り夫である康弘に全てを告白しようとした時、弘は突然にその話の腰を折り、由里子の告白を防げた。その晩、弘は、家の金庫から由里子の為に金を盗もうとしたところを父に見つかり殴打された。そのことから由里子は弘の自イメージ 17分への強い愛情を感じた。由里子は二人の間に割って入り「弘さんのことは私にまかせてください」と夫に懇願した。しかし由里子はその後、心労のため病に倒れた。そして父の不在の晩、弘は由里子の枕元で看病しふたりは出逢ったばかりの頃のことをしみじみと話し、久しぶりに心が通い合った。由里子は言った「弘さんの気持はとっても嬉しい、でもお父様のことをありがたいと思っています。」弘には、この時、初めて由里子の想いが痛いほど理解できた。由里子は、その夜、これ以上夫も弘も苦しめたくないと決心して病院から毒薬を盗み服毒自殺を図ろうとしたが、弘が危ういところを救った。弘は、由里子の窮地を救うため、翌日、石垣に由里子が死のうとしたことを伝え、もう由里子を苦しめるのはやめてほしいと頼みに行った。しかし石垣がなおも由里子のことを罵倒したことで弘は心を決めた。石垣が席を外した隙に、前の日、由里子から奪い取った毒イメージ 18薬をビールに入れた。弘は苦しむ石垣を目の当たりにして恐ろしさでその場を立ち去り、クリスマスで賑わう夜の街を賭け抜け、家に戻った。由里子と弘と父・康弘・・千田家の居間には、三人が静かに黙って向き合っていた。弘が「じゃ、ぼくは、警察に行きます・・」と言って立ちあがった。その弘を、引きとめて「これを着ていきなさい」と自分の着ていたコートを弘の肩に着せかける父。父は、さらに由里子に「送ってやりなさい」と言った。雪の降りしきる中、弘と由里子が黙って歩いていく。別れの時がきた。傘をたたみ、深々と弘に向かって頭を下げる由里子に弘は言った「あとをたのむね・・・母さん・・」
     
    イメージ 19

    笹沢左保の原作「廃虚の周囲」を芦沢俊郎が脚色
    笹沢 左保(ささざわ さほ、1930年11月15日 - 2002年10月21日)
    日本の小説家。本名は笹沢勝(ささざわ・まさる)。デビュー当時の筆名は笹沢佐保だが、『招かれざる客』の単行本でデビューした翌年から左保と改めた。テレビドラマ化されて大ヒットした『木枯し紋次郎』(1970年代)シリーズの原作者として知られ、推理小説、サスペンス小説、恋愛論などのエッセイ他、歴史書等も著し、380冊近くもの著書を残した。
     
     
     
     
    イメージ 20キャスト
    舟木一夫:千田弘
    光本幸子:千田由里子
    山形勲:千田康晴
    勝部演之:石垣隆三郎
    山本紀彦:友人近藤
    沖山秀子:アパートのダンサー桂子

     
     
     
    いつか来るさよなら 作詩・作曲:井上忠夫
     
    イメージ 21誰も・・・誰も知らない この恋
    うずく心を 夜霧に浮かべて
    そっとつぶやく 小さな言葉
    いつかあなたに 告げるさよなら
    二度と・・・二度と逢えない この恋
    なぜかあふれる うつろななみだが
    遠いあなたを うつしてゆれる
    ひとりみつめる 愛のさよなら
     
    愛に傷つき あなたを求め
    泥にまみれて 告げるさよなら

    http://www.youtube.com/watch?v=zm1UEB2hPPY  舟友kazuyanさん作成の動画

    イメージ 22オマケです~舟木さんが、物語の中盤に突然、劇中のジャズ喫茶(当時はこう云った?)で唄い出します
    複雑に絡み合った大人の愛憎の泥沼に巻き込まれた青年・弘が本当の愛とは何か、愛に渇き、愛を求めて叫ぶような心のうちを歌ったものでしょう。聴きとりなので間違っている部分もあるかもしれません。
    ネットなどでも、どこを探しても、この歌に関することが出てません。御存知の方、教えてくださ~い!

    松竹映画「いつか来るさよなら」挿入歌 
     
    イメージ 23何かが始まれば 
    何かがきっと終わってしまう
    咲く花は散り 
    満ちた潮は引いてゆく
    ああ一度芽生えた愛は切なく
    実ることなくだれにも知られず
    果てない悲しみの涙だけがあふれても
    孤独の中で 強く生きて 死んでゆく
    ああ ああ それでも
    愛の心は 泣かない
    愛の中に明日が生まれて
    愛にいのちを賭けて
    愛に埋もれて死にたい
     
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    2014年のシアターコンサートは京都南座からスタートです。午前中は風花が舞う寒さの京都でしたが昼の部の開演時間にはお天気も回復して暖かくなりました。

    携帯からなのでとりあえずセットリストのみですが
    休憩20分はさんで115分たっぷり舟木ワールドを堪能させていただいた贅沢なコンサートでした。


    第一部
    ヒットパレード

    あゝ青春の胸の血は花咲く乙女たち
    北国の街
    絶唱
    哀愁の夜
    高原のお嬢さん
    銭形平次
    高校三年生
    学園広場


    第二部
    遠藤実スペシャル

    お月さん今晩わ
    ~藤島桓夫さん歌唱によるSP原盤で~
    十字路
    くちなしの花
    すきま風
    からたち日記
    星影のワルツ
    若いふたり
    天竜母恋い笠
    旅鴉
    初恋マドロス
    哀愁出船
    襟裳岬
    他人船
    みちづれ
    夢追い酒
    ギター仁義
    ソーラン渡り鳥

    ~アンコール
    北国の春


    やはり今年のシアターコンサートの圧巻は二部の遠藤実スペシャルでしょう。

    全ての曲に魂を込めた舟木さんの歌唱に恩師である「遠藤先生」への深い敬愛の想いを感じとることができました。

    ことに「遠藤演歌のど真ん中」と紹介なさったラストブロックの五曲は舟木さんにしか出せない色合いの世界でした。


    大宮のオフィシャルコンサートで素晴らしい2014年のスタートがきられましたが、つづく大阪の「ふれコン」でも舟木さんのパワーに驚嘆させられました。
    その余韻がまだ冷めないままにまたしても南座で完全にノックアウトされてしまった私です。

    もちろん客席も皆さん前のめりになるほど引き付けられているのがはっきりわかる空気感でした。

    高く張る声もまろやかでダイナミックなのに繊細な響きに満ちていて「円熟の境地」とはこのことなんだと実感しました。

    シアターコンサートは南座の次は中日劇場、新歌舞伎座、新橋演舞場と順に開催されます。

    何度でも聴きたいと思う素晴らしい構成です。
    舟木さんならではの品位溢れる歌唱で「演歌」もこんな風に色をつけることができるんだと改めて舟木一夫という個性の力をみせつけられた想いがしています。

    二日目の23日も昼夜どっぷり舟木ワールドに浸かってきます(笑)

    歌っている舟木さんがとても楽しそうないいお顔なのも嬉しく幸せでした。


    コンサートの詳細報告は後日になります。

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    イメージ 12014年のシアターコンサートは、四会場で開催されます。その先陣を切って京都の南座で幕が開きました。あまりに内容の濃い、ボリューム感のあるコンサートでしたので思うようにまとめられず、上・下に分けて掲載させていただきます。

    2月22日、23日の京都での二日間は大好きな京都で大好きな舟木さんの歌声のシャワーを浴びその幸せに満ち溢れた笑顔をたくさん拝見できた夢のような時間でした。

    イメージ 2また連日連夜の尽きることない舟友さんとの舟木談義(笑)も本当にそれぞれの舟友さんの舟木さんへの愛あればこその盛り上がりでした。みんなどこまで舟木さん好きやねん!(笑)そんな皆さんの想いがまた嬉しく舟木さんの魅力って素晴らしいんだと改めて噛みしめました。
     
     
     
     
     
     
    イメージ 9初日、千秋楽の二日間とも京都のホテルに宿泊して24日の月曜日の朝ホテルでテレビのニュースを見ていたときソチ・オリンピックのジャンプに出場なさった葛西紀明さんが言われた言葉です。
    「ここまできたら まだいける もっといける」
    この二日間の舟木さんのステージを拝見しその素晴らしい歌を聴かせていただいて私がずっと感じていた「何か今までとは違う感動と予感」の正体はこの「レジェンド・葛西」の言葉を聞いて見えてきたように思いました。
    潜在能力…古稀を前に、もしかしら歌い手として未だ開拓されていない未知の能力や魅力がもっともっとあるのではないかと思わせる舟木さんだったのです。
    「伸び代(のびしろ)」という言葉はどのフィールドにおいても新人に使う言葉だと思いますがなぜかこの二日間の舟木さんの歌唱からこの言葉を思い出していました。
    「レジェンド」という言葉は今年の流行語大賞にノミネートされそうでこんな言葉を軽々に使うのは恐縮なんですが、タイムリーなので敢えて「レジェンド舟木」と言わせていただきます(笑)
    「レジェンド」には「伝統、言い伝え、また言い伝えとなる予感」…などという意味合いがあるそうです。
    昭和の流行歌の歴史の中に「高校三年生」の大ヒットでアイドル歌手となった舟木一夫がいます。そして、もうひとり昭和歌謡を誰よりも愛し昭和歌謡をステージで歌い続けることをライフワークとした唯一無二の歌手・舟木一夫、そんな風に日本の歌謡史に名を刻まれる二人目の舟木一夫が今生まれようとしているのではないか…まさに舟木一夫が「伝説の歌い手」として名を残す予感が私の中で大きな確信となった南座でのコンサートでした。
     
    では、いつものように舟木さんのMCの中で印象に残った部分を交えながら、ご報告させていただきます。
    (ピンク文字は舟木さんのトークです)
                                                                                   22日昼の部での舟友さんからのプレゼントの花束

    イメージ 10シアターコンサートin南座 2014年2月  
    初日:22日/千秋楽:23日 13時開演/17時開演
    第一部:13:00~13:30(30分)
    休憩:13:30~13;50
    第二部:13:50~15:10(80分)
     
    先ず、開演の10分前に舟木さんが私服で登場。サンクスコンサートやふれコンなどと同様、プレゼントをまとめて開演前に受け取って幕が開いた時にはステージのテーブルに整然と並べられているスタイルです。ラフな私服の舟木さんがたくさん拝見できて、これもひとつの楽しみになりますし、プレゼントをなさるファンの皆さんも、舟木さんのステージをゆっくり楽しむことができると思いますから私はこのスタイルをダンゼン支持します。
    さて、舟木さんのお召し物は、黒っぽい地に花もよう。葉の部分はグレーで花はオレンジ系のタイトなシャツに黒の綿(?)パン。靴はスェード素材のような日本の色名でいうと柑子色?胸にペンダント。
    プレゼントを受け取りながら「今日は、私、機嫌がいいんです。昨日、パチンコに勝ったんで・・」とまたして
    も「パチンコ」ネタ(笑)何も京都にきてまでパチンコなんて(笑)でも、きっとパチンコは舟木さんの心のオアシスなんですね。ゴキゲンがいいせいか、お喋りもなめらかな舟木さん。
    帰る頃に雪が降ってたら夜の部もイメージ 11観て、なんなら南座に泊っていって下さい(笑)僕、今クセでアメダマなめながら失礼しています。バレンタインデー前にコンサートをやったら(メルパルク大阪のふれコン)すごいチョコレートの山で、これならジャニーズと勝負できるかも(大きな拍手)嬉しそうな表情でおっしゃる舟木さんが可愛かったです。
    やっぱりあの日のチョコレートのプレゼントの多さは舟木さんご本人ですら想像以上で嬉しく思われたんでしょうね。さらにプレゼントされた真っ白な花束を見て、花嫁さんのブーケをイメージされたようで
    「結婚式みたい!僕、花嫁?!」と軽口も出るゴキゲンの良さでした。最近、この高さでいただいていると、ちょっとね・・ふふふ・・と腰を伸ばしたり叩いたり・・ぼちぼちトシでんがな~。僕らが中学生の頃は修学旅行というと京都、奈良・大阪が定番だった。昔は京都を歩いてると舞妓はんとすれ違ったりしたけど、最近あまりなくてちょっとサビシイ・~そんなことないと思いま~す。私はこの日南座にくる時に普段着のお着物の舞妓さんと出逢いました。京都暮らしの頃も、先斗町や祇園小路ではお稽古に行かれるのかオフの普段の着物の舞妓さんにはよく遭遇してました。おそらく舟木さんが京都の祇園界隈をブラブラと歩かれることがあまりなくなったからではないかと思うのですがどうでしょう。ちょうど10分でプレゼントをすべて受け取られていよいよ開演です。
     
    第一部 :ヒットパレード
     
    ~オープニング
    あゝ青春の胸の血は
    (遠藤実)
     
    シルバーのラメ入りの黒のタキシード、ウエストの切り替え部分はサテン生地のようです。蝶ネクタイに胸には白いバラ(時々ライトのかげんでクリーム色に見えます)久しぶりに拝見したフォーマルなタキシード姿の舟木さんはやっぱりカッコいいです。タキシードを着こなすには、やはり人間的な中身が必要なんだなァと思いながらしばしウットリ見つめていました。
    「あゝ青春の胸の血は」で幕を開けるのは何年ぶりかなァ・・一部の持ち歌でも遠藤先生の曲をきっちりつめて二部でもスペシャルということで・・いただいたヒット曲がたくさんある中で選ぶのはなかなかむつかしい。
     
    花咲く乙女たち(遠藤実)
    北国の街
    イメージ 12
     
    「北国の街」で急に思い出しましたが、5、6日前に共演した本人から電話があったんですよ。北海道にしばらく行ってくるから20日くらい帰ってこない。春頃、帰ってきたらまたコーヒーおこってね。あの人はきれいなんですが女らしくないボーイッシュな魅力のある人。とまたマコちゃんの話題でした。いつまでも、たまに会ってお茶できる関係を、青春時代に培われたのは素晴らしいですね。うらやましい「茶飲み友だち」のお二人です。お二人のツーショットを舞台で拝見できたら、感動でしょうね。舟木さんがマコちゃんにオファーなさったらきっと叶うと思うのですが・・・「北国の街」「絶唱」の2本の映画だけはリアルタイムで拝見しているので私にとっては特にそういった想いがあるのでしょうね。

     
    絶唱
    哀愁の夜
    高原のお嬢さん
     
     
    「絶唱」「哀愁の夜」「高原のお嬢さん」考えてみたらこの三本ともさっき話した人と共演してる・・
    「哀愁の夜」は最近、存在感が上がってきている。その時、その時「育とうとしている歌」が出てくる。ある時
    は「友を送る歌」だったり、去年は「哀愁の夜」と「高原のお嬢さん」・・長く歌っていると不思議とポツポツ
    と気になる歌が出てくる。そういうのを育てたくなる。
    ~余談ですが、私の好きな「落語」も全く同じです。噺家さんもある時期に集中的に同じネタばかりを高座にかけることがあります。舟木さんがおっしゃるようにネタを「育てて」いらっしゃるのです。基本的に、ひとり芸である「流行歌手」と「噺家」には共通して「自由と孤独」の両面があるのでしょう。いずれもステージ(高座)では自分の想いにまかせることができる故に、その結果は全て自分ひとりに返ってくるということなのですね。
     
    最近はこの歌がステージから外せなくなってきた。サインボール投げで使ってます(笑)多分「高校三年生」より幅広い人に聴いていただいている。あの頃、橋蔵先輩の歌(主演作の主題歌?)は三波さんが歌っているのが多かった。橋蔵先輩が「あの詰襟の高校三年生歌ってる子に・・」と御指名して下さった。
     
    銭形平次(スタンディングはなし)
    ~サインボール
     
    イメージ 13では一部は、この歌できちんと区切りをつけて行きたいと思います。

    高校三年生(遠藤実)
    学園広場(遠藤実)
     
     
    第二部では「遠藤実スペシャル」ということで、コンサートの進行に添って、遠藤氏の自伝を参考に、それぞれの曲にまつわるエピソードなどを抜粋して挿入させていただくのですが、私たちにとっては「遠藤実といえば舟木一夫」と連想ゲームのような存在の遠藤氏の自伝に舟木さんが登場しないわけもなく、きっちり舟木さんとの出逢いについても書いていらっしゃいますので、ご紹介させていただきます。
     
     
    イメージ 14「高校三年生」
    ~参考資料:「涙の川を渉るとき」遠藤実自伝 
    日本経済新聞出版社(2007年初版)より~

    ~仕事が軌道に乗った私のところに、雑誌「明星」の記者、恒村さんが上田成幸君という青年を連れてきた。コロムビアのスタジオで会った上田君は松島アキラの「湖愁」を歌ってみせた。確かにはやりの歌い方ではあったが、それ以上ではない。しかも様子をうかがっていると彼はいつも自信がなさそうに俯いてばかりいる。果たして芸能界で生きていけるだろうか。歌の評価の前にそんな心配が頭をもたげた。もう少し勉強してからでもデビューは遅くあるまいと思っていた。しかしコロムビアは待てなかった。テレビや音響機器の製造にまで手を広げていたコロムビアの経営は必ずしも順調ではなく、社内部門間の対立も目立っていた。嫌気がさした幹部たちが昭和38年9月に日本クラウンを設立し、馬淵玄三さんら有力ディレクターがごっそり移ってしまったため、残留組はあせっている。ここで大型新人をデビューさせ、大ヒットを飛ばさないと屋台骨まで揺らぎかねない。上田君の担当ディレクターがデビュー曲用に詞を十編ほど持ってきた。その中に丘灯至夫さんの作品があった。
    「赤い夕日が 校舎を染めて ニレの木蔭に弾む声」
    歌詞を読んだ途端、貧乏ゆえに中学に行けなかった自分のことが思い出された。日東紡績で見習工をしながら通信教育用の中学校教科書を買い校章に似た付録のバッジを帽子につけて悔しさを紛らわせていた日々。もし中学、高校と進めていたら、どんな青春が待っていたのだろう。
    思いつくままにワルツ風の旋律を譜面に落としてみた。いや少し違う。東京オリンピックは翌年に迫っている。そこでマーチ風の旋律に書き換えた。そうだ軽快で明るい方がいい。私自身の「失われた青春」に対するオマージュ(賛辞)でもあるのだから。吹き込みの日、上田君は見違えるような気力あふれる歌唱をみせた。その足で私を自宅に訪ねてきて「名前はどうしたらいいでしょう」と聞く。私は即座に答えた。
    「舟木一夫だよ。」かねて用意していた名前だった。
    舟木君が学生服で歌う「高校三年生」は昭和38年を代表するヒットになり、その年の日本レコード大賞新人賞を受賞した。
     

    休憩:20分

     
    第二部 七回忌に偲ぶ~遠藤実スペシャル~決して散らない花々

    いよいよ今年のシアターコンサートの目玉である第二部についてのご報告をさせていただくのですが、その前に13日のふれ・コン「日本の名曲たち~船村徹スペシャル」と同様、私は、歌謡曲の作曲家のことについては、恥ずかしながら何も知識がありませんので、遠藤実氏のことも昭和の歌謡界を代表する偉大な作曲家ということだけしか存じ上げません。またしても付け焼刃で少しだけ予習をしていきました(笑)その一部を先ずご紹介してコンサートの進行に沿って、参考資料の中から関連する箇所を挿入してまとめていきます。
     
    イメージ 15遠藤 実(えんどう みのる、1932年7月6日 - 2008年12月6日) ~ウィキペディアより~
    戦後歌謡界を代表する日本の作曲家の一人である。東京府東京市向島区(現在の東京都墨田区向島)生まれ。
    第二次世界大戦時に新潟県西蒲原郡内野町(現在の新潟市西区内野)にて疎開生活を送っていた。
    新潟特有の門付けという演芸スタイルが、後の作曲家人生に大きな影響を与えた。門付けとは、越後獅子等の芸を民家の軒先で披露し、金品を貰う習慣である。
    1949年、17歳の時上京。さまざまな職を経て、ギターを携えて流しの演歌師になる。
    1956年、日本マーキュリーレコードより『お月さん今晩わ』にて作曲家としてデビュー。当時の芸名は星幸男で、現在に至るまで世に送り出した楽曲は5000曲以上(その大部分は演歌)と言われ舟木一夫、千昌夫、森昌子など多くの歌手を育てた。
    1965年、島倉千代子らのパトロンだった中山幸市(太平住宅創業者)の出資による太平音響株式会社の設立に加わり専務取締役となり、1966年には自叙伝『太陽も笑っている』が映画化され、『太陽に突っ走れ』 (主演:千葉真一) が東映から製作配給された。~*舟木さんも門下生として出演なさっているそうです~
    1968年にはレーベル名のミノルフォンを社名にも転用し、形式上の社長に就任した。先に創業した日本クラウンに続き、自前のプレス工場を持たず制作とプロモーションに特化して、アーティスト主導の運営を打ち出した新業態レコード会社の嚆矢の一社だったが、1972年に徳間康快(徳間書店)に買収され徳間音楽工業と改称、さらに系列レーベルの別会社ジャパンレコードと合併して徳間ジャパン(現:徳間ジャパンコミュニケーションズ)に改組した。
    2003年、歌謡界から初めて文化功労者に選出された。
    2008年12月6日10時54分、急性心筋梗塞のため東京都内の病院で逝去。76歳没。
    2008年12月19日、日本国政府は遠藤実に対し、数々の楽曲で大衆音楽発展に尽くした彼の功績を讃え、死去した
    12月6日付で正四位に叙し、旭日重光章を授与することを決め、更に2008年12月26日、2009年1月23日に国民栄誉賞を授与することを閣議に於いて正式決定した。国民栄誉賞の受賞は陸上選手の高橋尚子以来8年ぶり16人目の受賞で、作曲家では古賀政男、服部良一、吉田正に次いで4人目の受賞者であった。
     
     
    イメージ 16私の以下のレポート文中で使用させてただいた遠藤氏ご自身による文章はすべて下記資料からの抜粋によります
    参考資料:「涙の川を渉るとき」遠藤実自伝 
    日本経済新聞出版社(2007年初版)
    いつもと違って、オープニングの曲を歌いながらではなく、舟木さんが登場します。チャコールグレーに白い極細のストライプのスリーピースに白いシャツ、胸にはシルバーのペンダント。

    開口一番、サインボールをお持ちの方に色紙のことを言うのを忘れました。すんませんでした・・・
    早いものでもう七回忌、十三回忌をやろうとするとこっちがアブナイ(笑)ただ先生を偲ぶというだけでなく、「遠藤実スペシャル」のような企画が皆さまに受け容れていただけるなら、こういうものがこれからもできるという大きなもの(舟木さんのステージの構成としての新たなスタイルという意味合いだと理解しました)がひとつ増える可能性がある。昭和の流行歌・日本の名曲たちというくくりで、いろんなジャンルの歌が入ってくる。それを「ステージで直接味わっていただきたい」そういうことも含めての「決して散らない花々~遠藤実スペシャル」です。

    「お月さん今晩わ」は、昭和32年、遠藤先生24歳、私12歳の時の歌・・・この最初の遠藤先生のヒット曲をどうしようかと思ったんですが、原盤のSPを聴くところからスタートします。ちょっと聴いてみて下さい。ステージのライトがおちて舟木さんはステージのセンターで客席を向いていらっしゃいます。藤島桓夫さんの若い、というかまだ幼さの残るような可愛い歌声が昔懐かしいレコード録音で会場に流れました。舟木さんは微笑みながら聴いていらっしゃるような懐かしいような表情にみえました。僕の「高校三年生」もそうでしたが当時は同時録音でスリーコーラス通してOK!をとらなきゃいけなかった。だからいかに先輩たちの歌がしっかりしてたかということです。舟木さんと一緒に聴くSPレコードの「昭和の音色」に感動しました。

    お月さん今晩わ  昭和31年 作詩:松村又一
    (藤島桓夫さん歌唱によるSP原盤で聴く)
    http://www.youtube.com/watch?v=mK9V2pIMoHo 
     
    ~「涙の川を渉るとき」より~
    何もかもうまくいかず、心躍ることもない。流しに出るまでの長い時間をもて余す毎日だった。その日もナメクジが這った跡の銀色の筋をぼんやり眺めていた。突如として新潟を出奔する前夜、砂山で見上げた月の像が記憶の底から立ち上がり、詞と曲が同時に湧いてきた。私の中で何かが何かを探り当てたらしい。~中略~「りんご畑のお月さん今晩わ うわさをきいたら教えておくれよナ」三番まで書きあげるのに20分もかからなかった。タイトルは「お月さん今晩わ」できたばかりの譜面を手に流しに出た。~中略~客は静かに耳を傾けている。二番になると店の人が手を止めて聴き入り、三番で涙を浮かべる人もいる。大衆に迎え入れられるということはこういうことなのか。振り返ると自分の個性ばかりを強調しようとしていた。歌というものは聴く者が思っていること感じていることを基本にし、そこに作者の個性が味付けのように入ってこそ受け容れられるものだということに初めて気づいた。松村又一先生があらためて詞を書いて下さることになり先生の勧めで初めて本名の遠藤実の名を出した。藤島桓夫さんが歌ってレコードが発売になったのは昭和32年の春。
     
    曲が終わると「可愛いですね・・♪お月さんコン・バン・ワ♪」と藤島さんの歌い方で歌ってみせました。翌日23日には、「こんな淋しいいなかの村で・・」・・舟木一夫が歌うとこうなとちょっと歌って下さったのですが、これもフルコーラスで聴きたかった~ァ!
    では、「遠藤実スペシャル」お楽しみ下さい。

    十字路  昭和34年 作詩:西沢爽    
    http://www.youtube.com/watch?v=6J7MV-3vtZI 小林旭
     
    くちなしの花  昭和48年 作詩:水木かおる
    http://www.youtube.com/watch?v=7g51o-46n90 (舟木さん歌唱) 渡哲也オリジナル
    アルバム「花もよう」収録(1976年)
     
    イメージ 3イメージ 4
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    すきま風  昭和51年 作詩:いではく 
    http://www.youtube.com/watch?v=sGNqEPweTUk (舟木さん歌唱)  杉良太郎オリジナル
    アルバム「どうしているかい」収録(1981年)

    三曲とも俳優さんです。先生に君の声ではいずれ「湖畔の宿」みたいなものを歌わせてみたいとまだデビュー前の17歳の時に言われました。僕はブルースが歌いたくて歌手になった、そのことを先生はお見透しだったんですね。「山のさびしい湖に♪」とちょっと歌ってみて伴奏がないとヘタでしょ(笑)~いつもの舟木さんの洒落ですね~昔は作家も専属制(レコード会社の)だったんで共作は難しかった・・
    この三曲の男唄は「男前」の唄ですが、元歌を歌われた三人の男前俳優さんたちとはまた異なった舟木さ
    ん独特の哀愁漂う男前ぶりが、匂い立つようですっかりとろけちゃいました。
     
    どんな作家の方も歌い手の特徴に合わせる。舟木一夫というひとつの個性の中でいろんな歌を歌う時は曲の原点に戻る。遠藤先生も、船村先生もメロディーが美しい。ここでふたつ並べたのは前の三曲の骨太のイメージと違って遠藤先生の最も繊細な部分がカオを出した一本の細い線が出たような曲~男唄と女唄を・・・
     
                                                                            舟木さんが島倉さんに「慕情はかなく」の詩を創られた頃   
     
    イメージ 5からたち日記  昭和33年 作詩:西沢爽  
    http://www.youtube.com/watch?v=4bUodAxWp4U 
    島倉千代子

    ~「涙の川を渉るとき」より~
    お千代さんは昭和30年に「この世の花」でデビューし、32年の「東京だよおっ母さん」で人気を確立したが、喉を痛めて初めてのスランプに陥っていた。馬淵さん(当時コロムビア文芸部ディレクター)は詞を差し出した。西沢爽作詩「からたち日記」原稿用紙の罫線が黄色いインクで盛り上がり「こころで好きと 叫んでも ただあの人と」という直筆の詩句が並んでいる。~中略~流しの合い間に胸ポケットから詞を取り出しては心に浮かぶメロディーを口ずさむ。いや違う。また別のメロディーを頭に描いてみる。これも違う。ある日、頭のどことも知れないところから一筋の音の流れが湧いてきた。四分の三拍子で始まり、「さああけんでも」で四分の二に変わる。更に四分の四へと移る変拍子の曲だった。西沢先生の許しを得て最後の「からたち からたち 」という繰返し部分を付け加えると、どこかにクラシックの匂いがする長調のメロディーができあがった。知り合いの音楽記者に両方の曲を聴いてもらったが「わからない」という。決めかねて馬淵さんにふたつの楽譜を見せた。だがやはり判断を示さない。「島倉君に決めてもらおう」と言った。~中略~私は、ふたつのメロディーをピアノで弾いた。じっと聴き比べていた彼女は「短調の曲を上手に歌う自信はあります。長調の曲は「さああけんでも」という変拍子のところがものすごく難しい。こんな歌は初めてです。ぜひ難しい方に決めてください。」と静かに言った。33年10月「からたち日記」は発売と同時に大ヒットした。

    「からたち日記」は島倉さんの曲の中で私が一番好きな曲ですから、舟木さんが歌って下さるのを聴けて本当に感激しました。この曲にはなぜだか私もリアルタイムで間に合っています。昭和33年というと私はまだ小学校入学前でしたが、歌う事が好きでしたから同年代の子どもに比べて当時の流行歌はよく知っていた方だと思います。むしろ歌謡曲にあまり関心を持てなくなったのは舟木さんに出逢った小学校高学年になった頃からでしょう。多分昔の流行歌の方が私の感性に合っていたんだろうと思います。「からたち日記」やこの後でご紹介する「襟裳岬」の世界は、とても強く印象に残っています。
     
     
    星影のワルツ  昭和41年 作詩:白鳥園枝
    http://www.youtube.com/watch?v=ZrhIgXycTNw 千昌夫

    ~「涙の川を渉るとき」より~
    前後するが、私には千昌夫という内弟子がいた。高校二年の時に学校を辞めて押しかけてきたため仕方なく家に住まわせた。彼が私の前で歌った「高校三年生」は「いったいどこの民謡だ」と作曲した私が思うほど勝手に節回しを変えたものだった。破天荒な行動を厳しく叱りながらもいつかは一人前の歌手にしてやりたいと思っていた。~中略~第二弾の「君ひとり」のB面に入れる曲がない。そこへ第二制作部長が福島県相馬市に本拠を置く作詞の同人誌「こけし人形」を持ってきた。白鳥園枝作詞「辛いな」という四行詩が載っている。「別れることは辛いけど しかたがないんだ君のため」・・脈絡もなく明星楽団の一員として吹雪の中を歩いた夜のことが脳裏に蘇った。見上げた空の星の輝き。「別れに星影のワルツを歌おう」と書き足した。白鳥園枝さんの歌詞を「星影のワルツ」と改題して昭和41年1月に発売した。しかしだめなときは何をやってもだめでまたしても不発。反響はない。千君は落胆し将来を悲観した。そしてその怒りは私にも向いた。ある出来事がきっかけになって私は彼を家から追い出した。千君は弟子の藤健次君の家に厄介になりながら毎日のように詫びを入れるため家に来ていた。だが決して会わなかった。~中略~多忙な日々のある日、岡山のナイトクラブに立ち寄った。店の女性たちがジュークボックスに硬貨を入れて何度も何度も同じ曲をかけている。「星影のワルツ」だった。作品としては自信があった。「この曲でもう一度勝負しよう」と決めた。あれから一年以上が経っている。許す時期だろう。アレンジを変えて吹き込み直すことにした。驚いたことに千君の歌唱は以前と全く違い甘えが抜けて表現に力があった。「そうだ、これだ」私は千君の肩を抱いた。千君は局名を書いた段ボールを体の前後に下げ、街の賑わいの中で歌い続けた。ポケットではいつも十円玉がジャラジャラと音を立てている。そのころはやり始めた有線放送に電話して自分の曲をリクエストするためだ。「星影のワルツ」は日本歌謡史上初めて有線放送からヒットした曲になった。二百五十万枚のレコードを売り、いまでもカラオケの定番として歌い継がれている。
     
    イメージ 6
    「星影のワルツ」はとにかく大ヒットした曲ということが私の記憶の中では第一でした。今回、舟木さんの歌唱で聴かせていただき、この曲は「抒情歌」だったんだと思いました。ツーコーラスまで歌ったあと、舟木さんがくるりと後ろを向いてあの素敵な背中を見せ、ワンコーラス分のインストゥルメンタルという趣向でこの曲の旋律の美しさを堪能させて下さいました。そしてまた客席の方に顔を見せてスリーコーラス目を歌い始め、ラスト「今夜も星が降るようだ 今夜も星が降るようだ」とリフレインで心が洗われるような余韻が残りました。
    この歌のメロディーと詩が舟木さんの肉体と魂をとおしてさらに浄化されたような澄んださわやかさが広がりました。そして「遠藤先生」への深い敬意もひしひしと伝わってきました。
    私には、さながら「抒情歌」に聴こえましたが、舟木さんは「ふつうの演歌というだけではセイリがつかない抒情歌との中間にあるような曲」・・と言われました。
     
    僕はお千代姉さんのリアルタイムにはすべりこみで間に合っている。他にも「新宿育ち」「おひまなら来てね」「困っちゃうな」なども歌うかどうかさんざん考えた。けど、私が「困っちゃうな」歌ったたらお客様が「困っちゃうな」(笑)、シナを作って「おひまなら・・」なんて気持ち悪いでしょ・と言いつつもちょっとだけ「シナ」をつくりそうになる舟木さんがキュートで可愛い!

    遠藤先生の曲にはアップテンポの歌はあまりない。僕みたいな乱暴者がいて「高校三年生」みたいな歌ができてくる。それまでの青春ものでは「若いふたり」このステージの中で一曲だけ明るく楽しい歌です。
     
                                     前列遠藤氏を挟んでこまどり姉妹、後列左から舟木さん、安達明さん、北原謙二さん、梶光夫さん
     
    イメージ 7若いふたり 昭和37年 作詩:杉本夜詩美  
    http://www.youtube.com/watch?v=lRqUE_M21PY 
    北原謙二
     
    やっと元気で楽しい歌が出てきたせいか、手拍子で客席が盛り上がりました。北原謙二さんはビブラートを入れない数少ない人、女性では西田佐知子さん。と西田さんの「アカシアの雨がやむとき」をモノマネ風に歌う舟木さん。

    これなんか舟木一夫の持ち歌でも不思議ではない。ドドンパなんですが、一時先生はドドンパに凝ってた(笑)と言いながら、後ろを振り返ってバンドに向かって「ちょっとドラムやってみて!」「ベースはいらないよ。ドラムだけ・・」とドラムのリズムだけでアカペラで「学園広場」をワンコーラス歌いきった舟木さん。これには客席全員が大喜びでした学園広場」は最初はコレだったんですよ。遠藤先生が「変?コレ・・」、僕が「変です!」歌っている舟木さんのビミョーな反応に気づかれたんでしょうか?(笑)そしたら二階に上がっていって40分くらいでできたのが今の「学園広場」舟木さんが歌う見事なアカペラ「ボツ盤・学園広場」を聴イメージ 8かせていただけたのは、23日昼の部でした。私も含めてこの日客席にいらした舟木さんファンには、感動的なサプライズ&トピックスだったと思います。
    「高校三年生」も15分くらいで作ったそうです。「学園広場」がドドンパにならなくて良かったです(笑)
    当時は専属制が強くて作家の方と歌い手の幅が狭かった。コロムビアは西條八十、船村、遠藤・・もし僕がビクターとかキングとかだったらどうなったか・・出逢いというのは不思議で吉田先生が橋さんと出逢ってそれまでの曲調から一気に開花した。ぼくと遠藤先生の出逢いも同じで舟木一夫のお客様はあまりそれまで流行歌を聴いていなかった特殊な層といえる。それまでの遠藤先生の青春ものから「高校三年生」で開花した。
     
    ~以下は「2014 シアターコンサートin南座 2月22日/23日 (下)に続きます~

     

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    2014 シアターコンサートin南座 2月22日/23日 (上)のつづきです
    イメージ 1舟木さんのトーク部分はピンク文字です
     
    遠藤先生の曲の中で一番少ないものは「股旅もの」です。その中で捨てがたい二曲を・・
    「天竜母恋い笠」はひばりさんの映画でリアルタイムで観ました。「旅鴉」は、テレビ時代劇「長谷川伸シリーズ」の主題歌で詩は藤田まさとさんの五木君の歌。メロディーのスケールが大きい。
     
    天竜母恋い笠  昭和35年 作詩:西沢爽  歌唱:美空ひばり
    瀬戸口寅雄の原作を、「天下の快男児 突進太郎」の棚田吾郎が脚色し、「次郎長血笑記 富士見峠の対決 殴り込み荒神山」の工藤栄一が監督したひばり二役の股旅もの映画(昭和35年・1960年公開)主題歌
     
    おさらばヨー
    泣かずにおくれよ ほととぎす
    泣いてはれよか 泣いてはれよか
    谷間の霧が
    一目逢いたい おふくろさんに
    逢えぬつらさを 乗せてゆく
    天竜 天竜下りの三度笠
     
    イメージ 10
     
     
     
     
    旅鴉  昭和47年 作詩:藤田まさと 
    http://www.youtube.com/watch?v=xaycWRKh4VQ 
    五木ひろし
    舟木さん歌唱音源 ライブアルバム「ふれんどコンサート」収録(1976年)

     
     
     
     
    イメージ 11デビュー前に、どの作曲家の先生について勉強するかという時、浜口庫之助さんと遠藤先生という二つの選択肢があったんですが、適切な言葉がないんですが僕は遠藤先生のメロディーにひっかかりを感じていた。ここで、メモを取りに行って・・正確に言うと昭和35年です。僕が15(歳)の時、漫画を読むかなにかしながらラジオから流れてきた曲にひっかかった。この曲は誰がお書きになったんだろうと知りたくなった。そう思ったのは西條先生が最初で、二人目が遠藤先生。デビューの時に遠藤先生を選ぶ伏線になった曲です。ですから遠藤先生との最初の出逢いは「高校三年生」でも遠藤先生の初ヒット曲「お月さん今晩わ」でもなくこれから歌う「初恋マドロス」なんです。
    酒・夜霧・盛り場・港・波止場・別れ・・・という世界を歌った曲を・・
     
    初恋マドロス  昭和35年 作詩:西沢爽  
    http://www.youtube.com/watch?v=BFj0GpNe6is 
    美空ひばり
     
    哀愁出船 昭和38年 作詩:菅野小穂子 
    http://www.youtube.com/watch?v=rI7JlRn13vY 
    美空ひばり
     
    襟裳岬  昭和36年 作詩:丘灯至夫
    http://www.youtube.com/watch?v=k_mXsly6CCE 島倉千代子

    舟木さんと「遠藤先生」との出逢いの「初恋マドロス」は私にはほとんど記憶がなく、「哀愁出船」は「♪うし
    ろ髪ひく哀愁出船♪」というサビの部分で記憶が蘇りましたが、「襟裳岬」については先にも書いたように大好きで、子どもながらも切ない気持で「風はひゅるひゅる 波はざんぶりこ♪」と歌ったことを覚えています。後年、吉田拓郎さん作曲の「襟裳岬」を聴いたときでも、この島倉さんの「襟裳岬」のほうが曲も詩もずっといいのになぜ同じタイトルを使うのかいく分「ムッ」としました(笑)「からたち日記」と同じように子ども心にも大好きだった曲を舟木さんが歌って下さることが嬉しくて、島倉さんの「襟裳岬」をイメージしていたのですがなんとなんと舟木さんの歌う「襟裳岬」は、ダイナミックで「風も波も島倉さんの女風や女波とは異なった趣の男風、男波」が目の前に描かれて、もうひとつ別の「襟裳岬」の光景が現れました。想像していたイメージと違うことでがっかりさせられることはままありがちですが、自分が想像しきれずにいたイマジネーションを見事に突きつけられた嬉しい想定外というものがあるのですね。「からたち日記」では楚々とした乙女のほのかな恋を歌っていますが、「襟裳岬」に歌われているのは、おそらく北の海に生きる情熱的でアグレッシブな少女が想像されますから、舟木さんの力強い歌唱で聴くとその少女の顔つきや体つきまでまた違ったものに見えてきます。歌いだしの、「風はひゅるひゅる」のインパクトとラストの「風はひゅるひゅる 波はざんぶりこ」の余韻を残す表現力の見事さに圧倒され、胸がざわざわと波立つような不思議な気持ちになった一曲でした。
     
    舟友さんの22日夜の花束
     
    イメージ 12「襟裳岬」を歌い終えた舟木さんが「僕はこの歌が大好きです」、お千代姉さんが亡くなって私が一番古くなっちゃって・・私がデビューした頃は藤山一郎さん、並木路子さん・・・ひばりさんはこんな時から(小さい時というジャスチャ―)歌ってますから枠の中には入らないですが・・当時コロムビアには男の歌い手が女性に押されていた。ひばりさん、お千代姉さん、他にもこまどり姉妹、五月みどりさん、男性は守屋さん、井上ひろしさん、アントニオ古賀さん・・ひばりさんに言われた。「やっと男が出てきたのね」(笑)そのひばりさんとコロムビアのエレベーターで一緒になった。どちらもレコーディングだったのかな。ひばりさんは小柄なんですよ。それで「ひばりさんは意外と小さいんですね」と言ったら思いっきり睨まれた(笑)女性だから小さくても構わないですもんね。とひばりさんが睨んだのが解せないという感じの舟木さんが面白かったです(笑)
    ここで五曲並べたのは、遠藤メロディーのど真ん中という曲。
     
     
     
     
     
     
    他人船  昭和40年 作詩:遠藤実 
    http://www.youtube.com/watch?v=0E7C_VDt0qU 三船和子

    ~「涙の川を渉るとき」より~
    太平音響としてスタートした新会社のレーベルは「太平レコード」にしたかったのだがすでに同じ名前が登録されていることがわかり諦めなければならなかった。レコード会社にとって一番大事なレーベルをどうするか。「遠藤実に任せる会社ですから」という中山さん(太平グループ総帥)の一言でその二ヵ月後に社名を変更し、私の名をとった「ミノルフォン・レコード」が発足した。~中略~ともかく自前の歌手をそろえるのが先決だ。ある女性歌手がオーディションを受けにきた。私は一瞬の印象でその歌手ではなく付き添いの女性の才能に目がいった。歌わせてみると思った通りそれがミノルフォン新人歌手第一号になる三船和子君だった。~中略~会社の業績は相変わらず低迷いる。打つ手も思いつかないまま会社のデスクにじっと座っているとき過ぎ去った日々が胸に蘇ってきた。流しのころの記憶が映画のフィルムのように脳裏を流れる。やがて映像が一人の女性の顔を浮かびあがらせた。和美だった。~中略~「ああ この黒髪の先までが あなたを愛しているものを」で始まる三船和子の「他人船」が生まれたのはその直後だった。和美の面影を散らしたこの曲はヒットした。
     

    イメージ 13みちづれ 昭和50年 作詩:水木かおる  
    http://www.youtube.com/watch?v=8LysvqGLmz4  
    牧村三枝子
    舟木さんの歌唱音源アルバム「どうしているかい」に収録(1981年)
     
    ~「涙の川を渉るとき」より~
    昭和50年に渡哲也さんに「みちづれ」を書いた。それを聴いた牧村三枝子君のディレクターが彼女に「この曲を歌ってみないか」と勧めた。牧村君はテープを家に持ち帰って聴いてみると歌詞とメロディが心の芯に響いてくる。「ぜひ歌わせて下さい」と返事をした。渡さんも牧村君が歌うkじょとを快く承知してくれた。53年の秋、牧村君がレコードを吹き込む場面に立ち会った。そのとき彼女は「寒い更けは お酒を買って」のところが歌いづらそうだった。「キーが高いので、調子がわるいときは苦しいんです。一音下げていただけませんでしょうか」と訴える彼女に私は答えた。「楽に歌っては駄目なんだ。歌い終わって歌手本人が『よかった。歌えた』という思いをするような歌い方じゃないと聴く人の心には届かないんだ。歌で家を建てて両親に孝行したいとか言っていたけどそんな歌い方じゃ家は建たないよ。」彼女は思い直してマイクの前に立ち、懸命に歌った。
     
    夢追い酒 昭和53年 作詩:星野栄一  
    http://www.youtube.com/watch?v=8LysvqGLmz4 渥美二郎
     
    ギター仁義  昭和38年 作詩:嵯峨哲平  
    http://www.youtube.com/watch?v=XnLhVS__FyU 北島三郎
     
    雨の裏町 とぼとぼと
    俺は流しの ギター弾き
    ”おひけえなすって
    手前ギター一つの
    渡り鳥にござんす”
    峠七坂 手を振って
    花の都へ 来てから五年
    とんと うきめの出ぬ俺さ
     

    イメージ 14ソーラン渡り鳥 昭和36年 作詩:石本美由起 
    http://www.youtube.com/watch?v=VWBbtcEGoTw 
    こまどり姉妹
     
    津軽の海を 越えて来た
    ねぐら持たない みなしごつばめ
    江差恋しや 鰊場恋し
    三味を弾く手に 想いをこめて
    ヤーレン ソーラン
    ソーラン ソーラン
    唄うソーラン ああ 渡り鳥
     
    ~「涙の川を渉るとき」より~
    コロムビアで神戸一郎さんのレッスンをしていたら、そろって丸い眼をした二人の若い女性が横に座って私に会釈した。コロムビアのテストを受けるために来たのだという。そっくりな顔に「双子?」と聞くと、そうです。と同時にうなずく。「歌を聴かせてもらえないかな」~中略~まだ二十歳だという娘が「裏町人生」を?可憐でありながら想像もつかない人生の哀感を感じさせる歌声に私は驚いた。流しの臭いがする。「その歌い回しはどこで習ったの?」と尋ねると、思った通り彼女たちは流しなのだと答えた。北海道の炭鉱で働いていた父親が体を壊したため母が民謡、父が太鼓の門付け芸人になった。両親とともに幼いころから全国を流浪したせいで、姉妹は小学校へも満足に通えなかった。~中略~幼い頃から苦労を重ねてきたのに姉妹にはすれたところが少しもない。私は本気で二人を育てようと思った。
     
     
     
     
    イメージ 15~アンコール
    北国の春  昭和52年 作詩:いではく  
    http://www.youtube.com/watch?v=uGvECzTIlCw 千昌夫
     
    白樺 青空 南風
    こぶし咲く あの丘
    北国の ああ 北国の春
    季節が都会では わからないだろと
    届いたおふくろの 小さな包み
    あの故郷へ 帰ろかな 帰ろかな

    ~「涙の川を渉るとき」より~
    「北国の春」
    が発売されたのは昭和52年4月のことだった。当初、レコードのA面は「東京のどこかで」と決まっていた。メロディーも書きあがり、後から詞をつける「はめ込み」を待っていた。しかし作詞を担当するいではく君の仕事ははかどらない。そしてB面の詞も届かない。私の家でいで君と相談していた。「B面の詞はどうですか?」「一応書いてみたんですが」いで君が自信なげに差し出した詞を読んで立ちあがった。「白樺 青空南風」という印象的な言葉を並べて歌い出す。そして「届いたおふくろの小さな包み」「あにきもおやじ似で無口なふたりが」とまるで私自身の郷愁をわしづかみにするような場面がちりばめられている。この詞は、私が本当はどんな曲を書きたかったのかを教えてくれた。心の底にじっと横たわっている故郷の情景。そこで暮らした家族との日々。自分を育んでくれたものすべてに対する感謝と懐かしさをもっと早く歌にするべきだった。
     
     
    イメージ 2舟木さんも、時々コンサートでおっしゃっているのですが、遠藤氏は昭和40年3月にコロムビアを辞め、その後ミノルフォンレコードを設立されましたから昭和38年にデビューなさった舟木さんとの歌い手と作曲家としての出逢いは数年のズレがあればなかったことになります。そういうことを思えば、「高校三年生」という歌と「舟木一夫」という歌い手が世に出たこともひとつの大きな奇蹟といえるのかもしれません。そして舟木さんが遠藤先生との出逢いは「高校三年生」ではなく15歳の時に、たまたまラジオから流れてきた「初恋マドロス」という歌に「ひっかかりを感じた」ことだとおっしゃっていたことも考え合わせると、「歌い手と作曲家」としての出逢いに至るための赤い糸のようなものであり人の世の縁(えにし)の不思議を思わせます。
     
    「襟裳岬」ですっかり舟木ワールドに呑みこまれてしまった私ですが、ラストブロックの五曲がこれまたとどめでした(笑)遠藤メロディーの真髄に迫る名曲を、「自信なさげにいつも俯いていた上田君」が見事な咀嚼力と表現力で歌いきるステージを「遠藤先生」がご覧になったらどれほど喜ばれたことかと思いました。
    特に私には、「ソーラン渡り鳥」のメロディーと北の海の潮の匂いがしてくるような舟木さんのソウルフルな歌声が、今も耳に残っています。

    無意識にテレビやラジオから流れてくる歌を聴いていたのは小学校中学年くらいまでだったと思いますが、その頃は、歌謡曲であろうとポップス系であろうと耳に心地よく感じるものを無差別に楽しんでいたのだと思います。舟木さんのデビューの前後あたりには、純愛ものや青春ものの流行歌も生まれて、同時に和製ポップスも人気でした。そのうちにビートルズ旋風、フォークソングにGS時代と日本の軽音楽が多様化していくと、いわゆる「演歌」は若者にとって自分たちとは無縁のエリアになっていったのでしょう。私もそのひとりだったかもしれません。特に好きなジャンルはありませんでしたが、高校時代はカンツォーネとかシャンソン、洋画の映画音楽などのレコードを買って聴いていました。同世代に「演歌」を敬遠する風潮があることは確かかもしれません。
                                                                                             舟友さんの23日の花束
     
    イメージ 3今回の遠藤実スペシャルは、そんな私たち世代にとって舟木さんでなくては担うことのできない「日本の名曲たち」の世界への水先案内人のお役目をしていただいたと思っています。舟木一夫という魅力的な個性の力によってそれまで何気ない昭和の風景のBGMとして聞き流してきていた数々の名曲の魂に触れることができたことは、本当に幸運なことだと感謝の気持ちでいっぱいです。舟木さんの昭和の名曲が風化していくことへの危機感、もったいないという強い想いが、オフィシャルコンサートに持ち歌ではなく、しかも「高校三年生」や「絶唱」に代表される舟木一夫というイメージを大きく覆すような選曲で臨まれるというステージの実現になったのですね。その勇気と流行歌の歌い手としての使命感と責任感の強さに心からの賞賛を贈りたい気持ちです。

    全ての歌が、向こうから舟木さんの懐に飛び込んできたかのような印象でした。舟木さんの歌への姿勢は今や「歌と仲良くしたい」という境地なのではないでしょうか。巧く歌ってやろうとか、歌に負けないぞとかいう肩に力の入ったような感じが微塵も感じられません。勿論真摯に「歌」そのものと対峙していらっしゃる厳しさはひしひしと伝わってくるのですが、その心の内には、大好きな歌とちょっとでも仲良くなりたい、近づきたいという無垢な素直さにあふれているように思います。まさに歌と自分自身が一体化してしまったようなフレンドリーな関係性を築いてしまっているように見えるのです。

    今回のコンサートのセットリストの何曲かは、「プレ・舟木一夫」時代から上田少年が親しんできたものが多くそれらの歌はごく自然に心身ともに成長期の真っ只中にいた上田少年の血となり肉となったのだということがよくわかりました。上田少年と昭和歌謡との幸せな出逢いと関係性が今のステージ歌手・舟木一夫の情熱を燃やし続ける素晴らしい糧になっているのだと思いました。
    ステージに満ち溢れる品格と輝きとパワーに酔いしれた京都の二日間でした。これほど舟木さんが想いを込めて企画なさったコンサートですから、ぜひライブ盤をCD、DVDとして発売していただきたいものです。
    舟木さんはステージで聴いていただきたいという意向が強くおありだと感じますが、足を運びたくても運ぶことのできないファンの方のためにもぜひ音源化していただくことを希望します。
     
    二日間の夢のような舟木ワールドも無事終了。多分カシミアと思われるコートを着て、大きく手を振って下さって、タクシーに乗り込まれました。道路を隔ててましたがステキな舟木さんの姿を「お疲れ様」の気持ちをこめてお見送りしました。                       残念ながら撮影はできませんでしたがこんな感じで色はキャメルでした
     
    イメージ 8
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    最後に遠藤メロディーのバックボーンとなっていると思われる遠藤氏ご自身の言葉をご紹介します。
     
    イメージ 4「涙の川を渉るとき」 日本経済新聞出版社 「私の履歴書」(日本経済新聞連載)2007年発行
    ~あとがきより~
    涙は苦悩を洗い流してくれる。喜びを何倍にも膨らませてくれる。泣こうと思って泣くのではない。心の波動が我知らず涙をこぼさせる。たくさん泣いたということは、それだけ喜びと悲しみの数が多かったということだろう。思えば幸せな人生ではないだろうか。
    メロディーもまた涙と同じように私の心の中に湧きあがってくる。若い時と違って作曲には一切の楽器を使わない。浮かんできた旋律を直接譜面に書いていく。
    これまでいったいいくつの作品を世に送り出したか。自分でも定かではなくなった。五千曲か六千曲か、あるいはもっとあるのかもしれない。そのひとつひとつに私の歩んできた足跡が刻まれている。
    本書のタイトルを「涙の川を渉るとき」としたのは、私の人生は音楽を心の支えにして夥しい涙の川を越える旅であったように思えるからだ。日本人は、とくに男は人前で涙を見せるものではないと教えられる。それからすると私などは何んとも意気地がないようだが、私にとって涙は人生の友であった。これからも喜びの涙を流すような出来事があればと願っている。
     

    人の世に涙の川があり
    苦労の山もある
    その川を渉るとき
    その山を越えるとき
    歌という友がいる
     

    巻末に記載の「遠藤実作品リスト」より舟木さんの曲 ()は作詩者
    イメージ 5昭和38年
    美しいひと(西沢爽)
    学園広場(関沢新一)
    高校三年生(丘灯至夫)
    淋しい町(丘灯至夫)
    修学旅行(丘灯至夫)
    只今授業中(関沢新一)
    仲間たち(?西沢爽)
    はるかなる山(西沢爽)
    水色のひと(丘灯至夫)
    夜更けの街の物語(関沢新一)
     
    昭和39年
    あゝ青春の胸の血は(西沢爽)
    いなせじゃないか若旦那(安部幸子)
    右衛門七討入り(西沢爽)
    右衛門七節(西沢爽)
    おみこし野郎(関沢新一)
    貝がらの唄(西村益子)

    イメージ 6君たちがいて僕がいた(丘灯至夫)
    青春は僕らのもの(丘灯至夫)
    東京新宿恋の街(荒木忠雄)
    定時高校生(三浦康照)
    花咲く乙女たち(西條八十)
    夕月の乙女(西沢爽)
    若き旅情(西條八十)
     
    昭和40年
    あありんどうの花咲けど(西沢爽)
    あの娘をまもろう(丘灯至夫)
    木挽哀歌(安部幸子)
    成人のブルース(丘灯至夫)
    火消し若衆(安部幸子)
    待っている人(西沢爽)
     
    昭和41年
    おもいをこめて手をふろう(西沢爽)
    高校生音頭(丘灯至夫)
    花の応援(丘灯至夫)
    ふるさとの乙女(西沢爽)
                                                                                     流浪のレコーディング打ち合わせ風景
    イメージ 7昭和47年
    さすらいの夜(松坂直美)→流浪[さすらい]と改題
    青春(丘灯至夫)
     
    昭和48年
    ああ荒城の月かなし(石本美由起)「石本美由起作品集」収録
     
    昭和49年
    旅路(丘灯至夫)
    寝顔(西沢爽)
     
    昭和50年
    紙の指輪(吉田旺) アルバム「十二ヵ月の愛の詩」収録
    楡の雨(吉田旺)  アルバム「十二ヵ月の愛の詩」収録
     
    昭和52年
    まごころ(吉田旺)アルバム「愛はまぼろし」収録
     
    平成8年(35周年)
    いつでも青春(川内康範)
    想春(川内康範)
     
     
     
     

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    早いもので今日で2月も終わります。今年の舟木さんの初仕事は2月6日の大宮ソニックシティ・大ホールからスタートして、その後、13日と17日には大阪と東京での「ふれんど・コンサート」、そして22日、23日
    と二日間にわたる京都南座でのシアターコンサートと続きました。私たち舟木さんファンにとって嬉しく、また充実した月になったのではないでしょうか。3月には、また関東の相模大野のコンサートを皮切りに、関西の堺と続き、月末の桜の咲く頃には、名古屋・中日劇場のシアターコンサートが開催されますから、心待ちになさっている方もたくさんいらっしゃると思います。
    そんな、こんなで「去りゆく如月・二月を偲び、訪れ来る弥生・三月への心躍る想いを込めて」それぞれの季節が感じられる舟木さんの佳作二曲をご紹介させていただきます。
     
    イメージ 3「ふれコン」の船村徹、「シアターコンサート」の遠藤実、両先生の、昭和の名曲は「演歌」の世界でしたが、それらの「演歌」を舟木一夫が歌うと私たちが想像もしていなかった世界が広がっていくという唯一無二の個性の力をみせつけて下さいました。その感激と驚きの余韻の中で、あらためて「舟木一夫」にしか描きだせない風景と抒情にあふれた曲を聴いてみるのもまた、楽しいのではないかと思います。三十代半ばの舟木さんの歌声は最も繊細で透明感に満ちていて胸をしめつけられるような哀感と切なさと、当時の舟木さんの痩身と哲学者のような風貌が相俟って痛々しいほどの美しさが迫ってきます。様々な人生の季節の中で、この時代もまた舟木さんのかけがえのない魅力をその旅路の記録にとどめているのだと思うのです。
     

    歌手生活十五周年記念盤(1977年) 一葉舟~舟木一夫オリジナルアルバムⅠ 収録
     
    イメージ 1流氷まつり 作詩:北炭生 作曲:中原華道
     
    こんな寒さまで 
    祭りにしてしまうんだねと
    淋しそうにほほえんだ
    あなたの顔
    今も想い出します
    あの日と同じ
    白いコートに身体をつつみ
    ぼんやりと立ち止まり
    想い出辿ります
     
    空の上から見えますか
    薄青色の氷像が
    あれから二年もたったのに
    ひとり歩きがまだ出来ません
     
     
    イメージ 2強く透徹る
    氷の翼を持ちながら
    白鳥は飛べないで
    悲しい瞳をしている
    空を見上げて
    月の光に
    浮かぶ流氷数えて
    いつか二人して暮らす日を
    夢みていました
     
    涙ながれてやまぬのは
    寒さのせいと思います
    ひとりぼっちの強がりに
    粉雪ちらちら降りかかります
     
    空の上から見えますか
    薄青色の氷像が
    あれから二年もたったのに
    ひとり歩きがまだ出来ません

     
    「流氷まつり」は一年で最も寒さが厳しくなる時期である2月に網走、紋別などで毎年開催されているそうです。舟木さんの曲の歌詩にもあるように、天然氷でつくられたメインの「氷像」のほかに大小数十基の氷像が立ち並びイベントや北の味覚を楽しめるそうです。そんな賑わいの中だからこそ愛する人を亡くした喪失感と哀しみがより際立つ切なさが迫ってきます。舟木さん三十代半ばの天から降ってくるような透きとおった歌声が生かされた歌だと思います。
    残念ながら以前はyoutubeにアップされていたのですが今は聴けません。

    以下のサイトで冒頭部分だけ「試聴」できますので雰囲気だけでもお楽しみ下さい。
    http://www.billboard-japan.com/goods/detail/399942
     
     
     
    歌手生活十五周年記念盤(1977年) 愛はまぼろし~舟木一夫オリジナルアルバムⅡ 収録
     
    ちぎれ雲 作詩:すずきじろう 作曲:里中さとる
    http://www.youtube.com/watch?v=4ew7tZ900-I

    イメージ 4雪どけの風に追われて
    ちぎれ雲 泣いているのか
    うらみさえ言わないで 遠ざかる君の背に
    北国の花の便りが
    とどくのは とどくのは
    いつの日のこと
     
    俺だけが ささえなんだと
    ふるえてた細い肩先
    あの人の幸せを 祈るのか ちぎれ雲
    むらさきの影をおとして
    別れ行く 別れ行く
    ふたりを抱いた
     
    イメージ 5噂さえ今はとだえて
    矢車の花も咲く頃
    旅を行くちぎれ雲 お前なら分かるだろ
    男ごころの切なさ
    あの人に あの人に
    とどけておくれ
     
     
     
     
    作詩のすずきじろう、作曲の里中さとるは皆さまご周知の通りいずれも舟木さんのペンネームです。
    アルバム「一葉舟」収録では「あなたは今」「恋唄」「夜汽車は北へ」「友よ」(秋元康さん作詩のものではありません)が舟木さんの作詩による歌です。私的にはご自作の「友よ」が好みです(笑)
    そして、「愛はまぼろし」ではこの「ちぎれ雲」の作詩・作曲ともに舟木さんがなさっているのが私たちファンには嬉しいですね。
    なお、アルバム「愛はまぼろし」には船村徹作曲「惜別旅(わかれたび)」遠藤実作曲「まごころ」も収録されています。舟木さんが三十代におふたりから提供された曲は少ないので、今となっては貴重な音源となった曲だと思います。
     
    以下のサイトで冒頭部分のみ試聴できます。

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      「れんげ草の咲くさんぽ径~舟木一夫の世界」(春日局)ブログスタート一周年です。
     
    うっかりしてましたが、3月1日で拙ブログ「れんげ草の咲くさんぽ径~舟木一夫の世界」が一周年を迎えました。ご訪問いただきました皆さま、あたたかなコメントをお寄せくださった皆さま、また、貴重な資料をご提供くださった皆さまへ深く感謝申し上げます。舟木一夫という存在の大きさをこのブログを始めることであらためて知ることができた一年でした。これからも勝手気ままではありますが、私なりの「舟木一夫の世界」をもっともっと探検していきたいと思っています。何よりも舟木さんのご健康とご活躍を願って。
     
    では、日記にうつらせていただきま~す
    2月22日と23日の両日開催された京都・南座のシアターコンサートは、私の今年の上四半期の舟木さんのステージの中でも一番の楽しみにしていました。
    今回は、桑名から近鉄の急行電車で四日市まで出て、四日市からは一時間に一本出ている高速バスを使いました。京都に入るまでの高速道路にあるバス停は三重県と滋賀県の県境の「土山インター」だけですから、1時間半ほどで京都駅に到着です。「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と古くから「鈴鹿馬子唄」に唄われているように、22日の朝、四日市を出発した時には、顔を見せていたお日様も、この唄のとおり鈴鹿あたりから雲が出てきて、土山ではなんと、チラチラと雨ならぬ風花が舞っていました。まだ山々の斜面の木々には雪が凍てついたように張り付いていました。でも山越えすると嘘のように晴れて、また暖かな日射しが注いできます。山が切り拓かれて高速道路が通るようになっても「鈴鹿馬子唄」ができた頃から地形そのものは変わっていないのかもしれません。
     
    イメージ 1
     京都市内の最初のバス停の京阪五条で下車して、京阪電車の清水五条から三条へ。三条で地下鉄東西線に乗り換えてひとつめの東山で下車。歩いて10分ほどのホテルに荷物だけ預けにいきました。
    ホテルは平安神宮の大鳥居前の仁王門通りを東向きにすこし入ったところで京都市美術館の建物が目の前に見えるなかなかいいシチュエーションです。実は、コンサートの日の一週間前までは初日が終わった日に一泊だけの予定で千秋楽は途中退席して高速バスの最終便で帰るつもりでしたが、やっぱり舟イメージ 2木さんを最後までお見送りしたいという気持ちとせっかくの京都なんだから「さんぽ」もしたいなぁ・・・と急遽、ネットで探しだしたのがこのホテルでした。たまたま偶然に見つかったホテルの「さんぽ圏内」に金戒光明寺がある場所だったことに「運命を感じました」(笑)これはキマリだ!舟木さんと再会してから京都でどこか舟木さんがらみの「さんぽ」ができたらいいなぁと思って以前から考えていたのがくろ谷と呼ばれている金戒光明寺です。
     
     
     
    平安神宮の大鳥居をくぐって参道を挟んで向かい合っている京都市美術館と国立近代美術館の正面に平安神宮が見えています。つきあたりの平安神宮を右折れすると岡崎神社、さらに北に上がると「くろ谷」への案内版があります。もういちど突き当りを右折れすると・・・
     
    イメージ 23
     
    山門が見えてきて右側には大本山金戒光明寺、左側には京都守護職本陣と書かれた看板がかかっています。↓
     
    イメージ 13さらに驚いたことに・・これは私が物知らずなだけなんだと思いますが(笑)・・なんと金戒光明寺の境内の敦盛さんの供養塔のすぐそばに、徳川忠長さんの供養塔があることも敦盛さんのことを調べようとネットの海を泳いでいるうちに判明しました。さらに、さらに、その供養塔を建てたのが、忠長さんを死に追いやったとも言えるあの春日局さんだったのです。私的にはあまりの奇遇に、ビックリ仰天!でした。
     
    それにしても舟木さんは、どうしてこうも悲運の人ばかり演じていらっしゃるのでしょう。「似合うから」の一言ですみそうですが、なにか因縁めいたものを感じるのは私ばかりではないかもしれませんね。

    イメージ 24金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)
    京都市左京区黒谷町にある浄土宗の寺院。山号は紫雲山。本尊は阿弥陀如来。通称寺名をくろ谷さん(くろだにさん)と呼ぶ。知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の大本山の1つである。
    承安5年(1175年)春、法然が比叡山の黒谷を下った。その後岡を歩くと、大きな石があり、法然はそこに腰掛けた。するとその石から紫の雲が立ち上り、大空を覆い、西の空には、金色の光が放たれた。そこで、法然はここに草庵を結んだ。これがこの寺の始まりであるとされ、法然が最初に浄土宗を布教を行った地である。
    (ウイキペディアより)

     
     
    「京都守護職会津藩本陣」と大きな看板が山門に掲げられている映像が昨年の大河ドラマ「八重の桜」でも登場したので記憶に新しい方も多いと思います。
     
    「金戒光明寺は徳川初期に同じ浄土宗の知恩院とともに城郭構造に改められていた。会津藩主松平容保が幕末の文久2年閏8月1日(1862年9月24日)に京都守護職に就任すると、京都守護職会津藩の本陣となり、藩兵1,000人が京都に常駐し1年おきに交替した。会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かりとして新選組をその支配下に置き治安の維持に当たらせた。ここ黒谷の地で、鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の菩提を弔っている。 」(ウイキペディアより)
     
    イメージ 26そして、会津藩士の墓所の手前の階段下にある法然上人の御廟の前に、向かい合うように立っているのが熊谷直実と平敦盛の供養塔です。

    平敦盛 供養塔  
     
    平敦盛(1169~1184年)
    平安時代末の武将。美少年だったと伝わる。父は平経盛。平清盛は父の兄。官職にはついておらず、無官大夫と称された。十六歳で平家一門として参加した一ノ谷の戦いにおいて熊谷次郎直実により首を取られた。その時の様子は「平家物語」ばかりでなく能や謡曲、歌舞伎の題材として語り継がれている。須磨寺に首塚、高野山にも供養塔がある。戒名は「大夫敦盛空顔璘荘大居士」
     
    イメージ 28
    左上:敦盛供養塔
     
    左下:敦盛供養塔のアップ
     
     
     
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    右:熊谷直実供養塔から見た敦盛供養塔
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    イメージ 29以下は有名な「平家物語」の「平敦盛最期」の場面です・・・(ウイキペディアより)
    ~平氏が劣勢になり逃げようとした平敦盛を熊谷次郎直実が「卑怯者」と呼びとめたところ、敦盛は取って返す。その顔を見た直実は、息子と同じ年頃の美少年の首を打つのをためらい、名を尋ねるが敦盛は「すみやかに首を取れ」と潔く言う。涙ながらに直実は首を打った。敦盛は時に十六歳、笛の名手として知られ祖父平忠盛が鳥羽院より賜った『小枝』(または『青葉』)という笛を譲り受ける。先陣にも笛を持参した風流人だったという。これをきっかけに直実は法然上人を訪ね、金戒光明寺で出家したと伝わる。敦盛の供養塔は、直実のそれとほぼ同じ大きさの五輪塔で、法然廟を左右から守るかのように向かい合わせに建つ。端然と佇むその姿は少年武将の美学を映すかのようだ~
     
    *他にも兵庫県の須磨寺に首塚、須磨浦公園には胴塚、高野山奥の院にもお墓があるそうです。
     
     
     
     
     
     
     
    NHK大河ドラマ「源義経」  第二十二話 一ノ谷    1966年5月29日放映 
    この回で「平家物語」の有名なシーンが放映されたのですね。この頃は一生懸命観てましたね。
     
    敦盛哀歌      作詩:村上元三  作曲:古賀政男(1966年5月発売)
       
    イメージ 30須磨の浜辺に 波白く
    よせて返らぬ 十六の
    花のいのちは 匂えども
    俤あわれ 公達は
    無官の大夫 敦盛ぞ あゝ敦盛ぞ
     
    一の谷吹く 風さむく
    吹けば悲しき 横笛の
    月の調べは 流れても
    名こそ残れる 公達は
    無官の大夫 敦盛ぞ あゝ敦盛ぞ
     
    ひよどり越えに 雲荒れて
    弓鳴り渡る 戦いの
    雲の流れは 消えたれど
    まゆずみ薫る 公達は
    無官の大夫 敦盛ぞ あゝ敦盛ぞ
     
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    徳川忠長 供養塔 

    イメージ 31徳川忠長の供養塔は、法然廟とは反対側で「会津藩士墓所」や忠長の父・徳川秀忠の供養として建てられた五重塔へ向かう石段の左手の墓地にあります。この一角の中央奥にひときわ立派な供養塔がありますが、それが忠長の生母であり父である秀忠の正室のお江の供養塔です。そしてこれらの供養塔を建てたのが忠長とその兄の家光の世継ぎ問題をめぐってお江と敵対していた春日局です。
     
    イメージ 3
     
    上の写真の左側はお江(崇源院)供養塔、右端に見えている小さめのが忠長の供養塔
     
    イメージ 4ことのついでですが、私のHNを春日局としているのは特別に春日局を尊敬しているとか好きだとかいう意味合いはなくて、ただなんとなくです(笑)日本の歴史の中で悪女とか権力志向が強かったとか言われているイメージとして卑弥呼、北条政子、日野富子などがいます。歴史の表舞台に登場した女性へのバッシングへのささやかな抵抗というくらいな気持ちで「春日局」にしました。このHNは、このブログ様に考えたものではなくて、かなり以前にもブログを開設していた時も使っていましたから、その流れでそのまんま使っています。舟木さんに似合う愛らしいHNでなくてスミマセン
    でも、「一心太助江戸っ子祭り」で舟木さんが二役で徳川家光を演じていらっしゃいますから、春日局も軽くひっかかってて、ちょっと嬉しいかも・・(笑)
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    ←忠長の供養塔
     
     
      徳川家光に扮した舟木さん→
     
     
     
     
     
     
     
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    忠長供養塔の説明文→
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    おふたりの供養塔からちょっと離れた場所に遠慮がちに?建っているのが春日局の供養塔と説明文↓
     
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    春日局供養塔の説明文の末尾には~春日局はこの一件に関して責任の一端はあるとしてお江与の供養塔を建立したのを機会に忠長の供養塔も建立した~とありました。
     
    閑話休題・・・
    さてさて、実は私は、リアルタイムで舟木さんが演じられた徳川忠長さんについては全くかすりもしてません。大河ドラマ「春の坂道」の放映は1971年ですが、私は大学に入った頃だったでしょうか?ほとんど最初から観てませんでした。舟木さんが出演なさっていたことも知っていたのかいなかったのか全く記憶の範疇にないんです。その前年放映の吉永小百合さんが出演されていた「樅の木は残った」は観てましたから、その頃はもうすっかり舟木さん離れをしてたんでしょうね。
     
    イメージ 8春の坂道 (ウイキペディアより)
    「春の坂道」は、1971年1月3日から12月26日まで放送されたNHK大河ドラマ第9作。全52回。
    山岡荘八の書き下ろし小説「春の坂道」(後に『柳生宗矩』と改題)、および小説「徳川家康」を原作として杉山義法が脚色。泰平の世を築くために遠くて険しい「春の坂道」を歩んでいく剣術家・柳生但馬守宗矩の生涯を、家康・秀忠・家光の徳川三代の時代を背景に、「一紙半銭も私せず」の剣禅一如の精神とともに描いた作品。
     
    ここでまた、大倉明著「青春賛歌」の年表を参照させていただきます。
    1971年
    4月『あゝ名古屋城』(B面『金沢城』)
    5月『日曜日には赤い薔薇』(B面『三本のローソク』)
    5月15日東京サンケイホール「リサイタル 舟木一夫&サンケイ」開催
    6月20日大阪サンケイホール「リサイタル 舟木一夫&サンケイ」開催
    7月8日NKH大河ドラマ「春の坂道」徳川忠長役で出演
    7月14日フジテレビ「銭形平次」(第271話「虚無僧絵図」)出演
    8月『春の坂道』(B面『里の花ふぶき』)
    8月1日明治座公演「忠臣蔵異聞・薄桜記」「新吾十番勝負・完結篇」開催(26日まで)
    9月『初恋』(B面『あなたの故郷』)
    10月アルバム「スター・ダブルデラックス 舟木一夫をあなたに」
    10月24日大阪サンケイホール「リサイタル ふたつの秋」開催
    12月アルバム「初恋 舟木一夫抒情歌謡を歌う」
    12月31日第22回NHK紅白歌合戦に出場『初恋』歌唱(最後の紅白出場/1992年21年ぶりの出場を除く)
     

     
    イメージ 9第40話 1971年10月3日  忠長卿始末 その一
    第41話 1971年10月10日 忠長卿始末 その二
     
    徳川忠長という人物については、「徳川もの」のドラマでは必ず、兄・家光との関係ということにスポットがあてられた形でよく出てきますから、少しくらいは知ってはいますが、今回、「舟木さんを探すさんぽ径」としてまとまった形にしてみるにあたり、私の手元にはまったく大河ドラマが放映された当時の資料もなければ、私自身の記憶すらありませんので、デビュー当時から今に至るまでずっと舟木さんとの旅路をともになさってこられた大先輩に、多大なご協力をいただきました。彼女のお力なくしては、掲載できなかったことばかりです。たくさんの写真と資料の文面は、すべてご提供いただいたものです。この場にて、あらためて心よりの御礼を申し上げます。ほんとうにありがとうございました。私の非力ゆえ、ご厚意に応えられるような記事になってはいないと存じますが御容赦いただきますようお願いします。

     
     
     
    ご提供いただいた資料1
    イメージ 10NHKテレビの歴史ドラマ山岡荘八先生原作の「春の坂道」はすでに八月八日放送で第三十二回を迎えた。全構成は五十二回である。ファンの方はとっくに御承知のとおり、このドラマは徳川家康、秀忠、家光の三代に仕えた柳生宗矩という男が、家康によって政治開眼し、秀忠、家光のかげにあって泰平の国づくりに生涯を費した物語。
    脚本家の杉山義法さんもいっているとおり、家康が死ぬまでの二十九回は宗矩の眼を通して柳生新陰流で歴史を洗い流すことを狙い、三十回からは柳生宗矩の人間ドラマに発展している。出演者も宗矩の中村錦之助さんをはじめ、芥川比呂志、山村聡、市川海老蔵、司葉子、志村喬、片岡孝夫、島田正吾、高橋英樹、岸田今日子、京塚昌子、長門勇、倍賞美津子、田村高広さんなどの豪華メンバー。それに加えて舟木クンの出演が決定、すでにビデオ撮りがはじまっている。舟木クンが扮する徳川忠長は大御所秀忠の子で、将軍家光の弟。若い駿府城主である。寛永三年、参内するため秀忠、家光、忠長は上洛したが家光は修復された大坂城の城番制を定めた。秘かに大坂城主にと希っていた忠長は不服だった。父子三人が揃って参内し、家光が従一位、秀忠が左大臣、忠長は従二位権大納言に任ぜられた。ところが京都に滞在中、江戸では突然、母の浅井氏・阿江与(おえよ)の方が亡くなり、それを知った忠長は、父にも兄将軍にも告げすに単独で二条城を飛び出して、江戸へ帰るという気拙い事件を起こしてしまった。忠長にとっては母の御台所がいかに心の支えになっていたのかがわかるが、この子供じみた忠長の行為が、この後の大きなもつれの原因となった。忠長が秘かに希んでいた大坂城は城番制ときまり、その上、みんなの留守中に母が亡くなる・・或いは、忠長は自分が味方であったがために家中では不評であった
    母が何者かのために毒飼いされたのでは?という疑いでも抱いたのかもしれない・・
     

    イメージ 11忠長が抱いた疑惑について私の補足です↓(「崇源院」についての記述の一部 ウイキペディアより)
    戦後、鈴木尚が中心となって行なわれた増上寺の徳川家墓所発掘調査の際に、崇源院の墓も発掘され、その遺骨も調査された。その調査報告は『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』にまとめられているが、それによると崇源院は火葬にされており、父・浅井長政、母・お市の方、長姉・淀殿らがおそらくは長身であったと推察されるのと異なり、江は生前は小柄で華奢な女性であったようである。ちなみに、増上寺に葬られた将軍一門で荼毘に付されていたのは崇源院だけであった。秀忠・家光・忠長は上洛中で、江戸にいた有力者の中心は「明智」系の春日局だったことから、「浅井」・「織田」・「豊臣」色の強い江を病死に追い込み、証拠を隠滅するため火葬にしたという俗説もあるが、憶測の域を越えるものではない。
     

    ご提供いただいた資料2                         家光役の当時市川海老蔵(故12代目團十郎)さんと
    イメージ 12十月、浅井氏の葬儀が江戸で執行された。このころから忠長の乱行がはじまった。寛永七年九月、急速に老いこんだ秀忠に「日本一の加増(百万石)か然らずんば大坂城を預けられたい、その双方が拒絶されたら忠長にも覚悟がある」という強要書をつきつけた忠長は甲府に監禁された後に、上州高崎の安藤重長の許に預けられて幽居の身となった。父秀忠は、忠長の脅迫に屈すれば天下の仕置を曲げたことになる。それゆえ早々に切腹申付けてほしいと云い残し、亡くなった。忠長の処分で一番強硬なのは家康の落胤で大老格の土井利勝だった。兄弟愛にひかれて処分をちゅうちょしていた家光も、老臣どもに押しきられて忠長に切腹を命じる使者をたてねばならなかった。吹雪の夜、忠長はイメージ 14静かに一人で酒を楽しんだ後、寂容として自害して果てた・・「また悲劇の主人公ですか・・なんていわれそうだけど、悲劇のほうがドラマチックだし、この忠長という青年像にも魅力がありますね・・」と出演を前に舟木クンは話していた。忠長の事件を単に徳川家のお家騒動と見るのは早計で、徳川家安泰のための犠牲になったと言える忠長卿をどう舟木クンが演じてくれるのかがみものである。
     
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    「春の坂道」「里の花ふぶき」の曲の誕生にまつわるエピソードを画像付きでご提供いただきました。↓
     
     
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    里の花ふぶき  
    作詩:橋本比禎子 
    作曲:古賀政男 
      
     
    水ぐるま まわりまわりて 
    柳生の里は
    剣のひじりよ 祖先の在所
    山坂こえて 草鞋ばき 
    姿も浮かぶ 正木坂
     
    縞小袖 里の娘は 
    気立てのよさに
    柳生なりゃこそ 四百年の
    昔語りに 花が咲く 
    ちらりはらりと 谷の春
     
    願かけて 馬頭観音 
    おがみます
    春桃御前は 母ぎみさまよ
    ひたすらにゆく もののふに 
    春の坂道 花ふぶき
     
    イメージ 21春の坂道 
    作詩:泉漾太郎   作曲:古賀政男
     
    照る日 曇る日 ふたつはあれど
    ふたつとはない しあわせの道
    繁る葵の 葉に吹く風も
    雨もおさめる 剣禅一致
    夢に夢追う 二蓋笠
     
    春の坂道 悲願の鐘に
    明ける日和は 新陰流の
    抜かず 構えず 打込みもせず
    戈を止める こころの剣
    柳生神武の 無刀取り
     
    徳川忠長の略歴
    父:徳川秀忠、母:崇源院(浅井長政の娘お江与)徳川幕府第三代将軍徳川家光の同母弟。幼名は国松、国千代、門松丸。
    慶長11(1606)年5月7日誕生。
    元和6(1620)年元服。従四位下。参議兼右近衛中将。上野介。
    元和9(1623)年従三位権中納言。
    寛永元(1624)年駿河国・遠江国550000石を与えられる。
    寛永3(1626)年8月従二位権大納言。9月15日、崇源院、死去。
    寛永8(1631)年4月甲斐国に蟄居を命じられる。
    寛永9(1632)年正月24日徳川秀忠死去。6月加藤忠広改易事件。10月上野国高崎へ移される。
    寛永10(1633)年12月6日自刃。享年二十八。法名・峯巌院。
     
    徳川忠長の墓所(ウイキペディアより)
    墓は43回忌にあたる延宝3年(1675年)になって大信寺に建立され、現在では高崎市指定史跡となっており、硯箱、自刃に用いた短刀、自筆の手紙などが位牌とともに保存されてる。
     
    イメージ 17
     
     
    崇源院(すうげんいん):忠長の母
    天正元年〈1573年〉 - 寛永3年9月15日〈1626年11月3日〉)
    安土桃山時代から江戸時代初期の女性。一般には江(ごう)、小督 (おごう)、江与(えよ)として知られる。
    文禄4年(1595年)9月17日には伏見において徳川家康の嗣子である秀忠に再嫁する。秀忠は天正18年(1590年)に上洛し、織田信雄の娘で秀吉の養女である小姫と縁組をしていたが、小姫の死去により婚礼には至らなかった。秀忠との間には慶長2年(1597年)の千姫を頭に家光・忠長など二男五女を儲けた。
    家光よりも忠長を可愛がったのは、忠長が伯父・織田信長によく似ていたためであるともいう。忠長の妻は信長
    の次男・織田信雄の孫娘である。
     
     
    イメージ 18忠長は、幼少の頃から才気走った利発な子どもだったといいますから、母のお江は、敬愛していた伯父の信長(信長の妹のお市の方はお江の母)のように天下人ともなれる資質を忠長に見ていたのかもしれません。忠長の名前も信長から一字とっていたのではないでしょうか。顔立ちも信長に似ていたと言われる忠長を寵愛したのも、織田の血を引くお江のプライドが根っ子にあってのことだったかもしれません。
    忠長に関連した松平長七郎という架空の人物がいます。それが、舟木さんが1966年に大阪の新歌舞伎座で初座長公演をされた時の「若君風流」の主人公です。↓
    後年、大河ドラマで忠長を演じることになったのも因縁深いことだと思われます。

    松平長七郎   (ウイキペディアより)
    江戸幕府の第3代将軍徳川家光の弟・徳川忠長の子とされる架空の人物。諱は長頼(ながより)。伝説上は徳川忠長の遺児で母親は鷹司家の出とされている。
     
     
    その他、私がネット上から集めた資料です。あくまで参考ということでお読みいただければ幸いです。
     
     
    ・竹千代は乳母である福(のちの春日局)によって育てられ、国松は生母である江与が育てたことで、大きな確執が生まれることとなります。弟の忠長は眉目秀麗、才気煥発として父・秀忠と母・崇源院に愛されて育ちました
    兄である竹千代は病弱で引っ込み思案、吃音との話もあり。秀忠夫妻の期待は二男である国松に向けられます。しかし、竹千代の乳母である福は不憫な竹千代を思い駿河の家康に「長幼の序をもって家光こそが三代目」と直談判しました。
     
    ・忠長の正室に迎えられたのは、江与の従兄弟に当たる織田信雄の孫娘です。ここにも江与の忠長に対する並々ならぬ思い入れが伺えます。さらに秀忠からも寵愛され、何よりも忠長自身が生まれつき聡明であったために幕府内外で「将軍職後継者は忠長である」との風評が流れた時期でもありました。また、忠長は大井川に船橋をかけたり、駿府城下の整備を行ったりとその才を遺憾なく発揮し領国経営に邁進しました。
     
    ・以下は新井白石著の「藩翰譜(はんかんふ)」での忠長最期の場面ということです。
    寛永十年(1633年)十二月六日の朝、上州(長野地方)高崎に幽閉されていた忠長は、その日、自分の部屋の
    前庭に、新しい垣が造られているのを見つけ、そばにいた警護の侍に尋ねます。「どうしてこんな事をするの
    だ?」聞かれた侍は「上からの命令でしょうが、身分の低い私にはわかりません」
    そのまま、部屋に入った忠長は、ピシャリと障子を閉め、二度と庭へは出ようとせず夕方になって女性を遠ざ
    け、女童二人をそばに置き、お酒を飲みはじめました。やがてその一人にお酒を温めてくるように命じ、もう一
    人には酒の肴を持ってくるようにと言い、部屋の外へ出した。
    彼女たちが、お酒の支度を整えて部屋に戻ると、そこには真っ白な小袖の上に黒紋付を羽織った姿でうつぶせになった忠長の姿。その小袖が真っ赤に染まるほどの血を流しすでに息絶えていたのです。
    享年二十八歳。切腹ではなく脇差でノドを突いての自殺。
     
    イメージ 19

    あまりにも忠長についての資料がなく、その波乱に富んだ運命であるにもかかわらず研究対象としても小説の主人公としても取り上げられている例がほとんどないのが不思議な気もします。以下のサイト「歴史くらぶ」に「悲劇の貴人」として忠長についての記述があります。そこには以下のようなトーンで忠長の突然の失脚と自決について書かれていましたので資料としてご紹介しておきます。↓
    ~幕府が編纂した「徳川実記」さえ、忠長処罰の不当を訴えている。~詳細は下記サイトをご参照ください。
    http://rekishi-club.com/higeki/tadanaga.html
     
    ちょっとばかりヘビーな「さんぽ径」になってしまいました(笑)舟木さんの演じられた敦盛も忠長もそれぞれの時代を象徴するような「悲劇的な生涯・・しかもあまりにも短い生涯」でしたが、確固たる己の美学に忠実に生きた潔い生涯であったと思います。舟木さんがこれらのお役に抜擢されたのは、舟木さんに備わっていた精神性の中に原作者や制作者のインスピレーションに訴えるスピリッツがあったからにほかならないと私には思えます。
     
    敦盛さんと忠長さんの供養塔が目と鼻の先に建てられていることも何かのご縁なのかもしれません。
    そこにグイッと絡んでいらっしゃる春日局さんの供養塔もまたご縁なのかもしれませんね(笑)
    どなたかが、こんなことを書いていらっしゃいました。
    ~春日局が世継ぎ争いの敵だった江の墓を建てたのは一種のポーズとも考えられるが、後日造り上げられたイメージの外側にふたりの本当の関係があったのかもしれない~
    お江さん(崇源院)は、春日局によって建てられた供養塔を喜んでいるのでしょうか?また「春日局さん」には、その真意をおたずねしてみたい気持ちがしています。
     
                三条白川の白川橋付近の疎水の白梅が可憐な花をつけていました↓
     
    イメージ 25
     

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    春らしい陽射しの穏やかな日が少し続いたとおもったら、また真冬のような冷え込みで、東北や北海道では大雪の心配があるほどの厳しい寒さです。昔とは気候も変わってきたようですが、それでも「三寒四温」という言葉を思い出します。
    ・・・・とはいえ、日一日と日が長くなって、御岸の入りまでもう十日ほどとなりました。二月の終わりに、「如月と弥生のあわいに聴きたい舟木さんの歌たち」で、ご紹介したアルバム「愛はまぼろし」の中に収録されている曲に「ふるさとは屋敷町」があります。作曲は船村徹氏、作詩が石本美由起氏です。この歌詩の一番の冒頭が「梅・桃・桜・ 春は咲き・・・」という、今のこの時期にぴったりなので、思いつくままに花たちの写真と一緒に作詩をなさった石本美由起氏について、少し記載してみます。
     
                                                    写真は上から「梅~桃~桜」です。
     
    イメージ 1ふるさとは屋敷町 作詩:石本美由起 作曲:船村徹
    (1977年発売 舟木一夫オリジナルアルバム「愛はまぼろし」収録)
     
    梅・桃・桜  春は咲き
    落葉が泣かす 秋の里
    帰ってきたと 叫んでも
    迎えてくれる母もない
    白壁染める
    夕陽さびしい屋敷町
     

    イメージ 2木立ちの風を ふるわせて
    こころにしみる 祭り笛
    別れに泣いたあの人も
    嫁いで母に なったとか
    耳をすませば
    噂かなしい屋敷町
     
    イメージ 5

    故郷の月に ひとり酌む
    地酒の熱い 酔いごこち
    今さらなにを 偲んでも
    幼い日々は 返らない
    男の胸に
    涙しぐれる屋敷町
     
    イメージ 8
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    「桃の節句」もすみ、今は、梅が真っ盛りです。梅や桜の木は、どこでも見ることができますが桃の木は、私の住んでいる近辺ではあまり見かけることができません。娘たちが小さい頃は、菜の花とまだ小さな蕾の状態の桃の花があしらわれた切り花セットを花屋さんで買ってきて雛段の脇に飾ったものでしたが、もう段飾りのお雛様は場所をとるので内裏雛だけを残してあとは処分してしまいました。その内裏雛も長女の家にもらわれて行きましたが、彼女が飾っているのを見たことがありませんから多分今は・・・でしょうね
     
     
    イメージ 6さて、「ふるさとは屋敷町」の詩ですが、舟木さんファンならこの詩からどなたも「夕笛」を連想されるのではないでしょうか。私も、初めてこの曲を聴いたとき、西條八十作詩の「夕笛」の後日譚だと思いました。
    映画の「夕笛」の印象が強いので、あの物語では、主人公のふたりが死んでしまっているのですから、後日譚というのはムリがあるかもしれないのですが、「夕笛」という曲自体の醸し出す情景は、雄作さんと若菜さんの悲恋だけの世界にとどまらない普遍的な抒情の世界を詠い上げていると言えます。その、八十作詩「夕笛」は1967年に発売されました。そして作曲は船村徹氏です。それからおよそ十年後の1977年に船村氏の作曲で「ふるさとは屋敷町」が生まれたことは、やはり「夕笛」の世界が根底にあってのことにほかならないと思います。詩を作られたのが石本美由起氏という当時でも歌謡曲の作詩者として大御所だった方であることを考え合わせると、船村氏の「夕笛」への想い入れが十年後の「ふるさとは屋敷町」という作品にも込められているように思います。
     
     
    イメージ 7夕笛 作詩:西條八十  作曲:船村徹
     
    ふるさとの 蒼い月夜
    ながれくる 笛の音きいて
    きみ泣けば わたしも泣いた
    初恋の ゆめのふるさと
     
    おさげ髪 君は十三
    春くれば 乙女椿を
    きみ摘んで うかべた小川
    おもいでは 花のよこがお
     
    ふるさとへ いつの日かえる
    屋敷町 ふるいあの町
    月の夜を ながれる笛に
    きみ泣くや 妻となりても
     
    あゝ花も恋も かえらず
    ながれゆく きみの夕笛
     
     
    石本 美由起(いしもと みゆき )1924年2月3日 - 2009年5月27日
    広島県大竹市出身の作詞家。本名は美幸。幼少から喘息を患い、家に閉じこもるような生活を送る。生家は宮島
    や江田島など瀬戸内海を見渡せる風光明媚な場所に建ち、幾分救われる。そばにある文学は全て読んだが、なかでも北原白秋やゲーテを読みふけった。
    戦後、作詞を始め、高橋掬太郎が主宰する歌謡同人誌、「歌謡文芸」に投稿を始める。夢中になった白秋の詩『
    思い出』の中の一篇「ザボンのかげ」からインスピィレーションを得て「長崎のザボン売り」という詩を書き同人誌に投稿すると、作曲家江口夜詩の目にとまり、1948年に小畑実の歌でレコード発売され大ヒットした。1950年暮れ、東京に住まいを移し、キングレコードの専属となって作詞家としてのスタートを切る。
    翌1951年、作曲家上原げんとに見込まれ共にコロムビアレコードに移ったことで、上原をはじめ古賀政男船村
    市川昭介らの作曲家とコンビを組み、美空ひばり、島倉千代子、都はるみらの楽曲を手がける。特に美空ひ
    ばりには、大ヒットとなる「ひばりのマドロスさん」、「港町十三番地」、「哀愁波止場」、「悲しい酒」、「人生一路」などの詞を提供し、ひばり伝説の一翼を担った。美空ひばりには約200作を提供。他に遠藤実らとこまどり姉妹のデビュー「浅草姉妹」等も手がけている。(ウイキペディアより)
     
     
    先日、舟木さんのご出演で話題になった「日本の歌謡史を彩った作家達シリーズ~日本の歌人たち」にも第20回の「日本のふるさと、夢、憧れ、哀愁を詠う  石本美由起」(2011年2月9日収録版)として登場なさっていたそうです。 
     
    舟木さんに提供された曲は、それほど多くはありませんが、舟木さんが今年に入って、コンサートのステージにのせていらっしゃる「船村徹・遠藤実」両先生作曲の数々の「日本の名曲~流行歌」の中に、石本美由起氏の作品が、とてもたくさんありますので、このお名前はぜひ覚えておきたいと思っています。
    以下は石本氏作詩による舟木さんのオリジナル曲です。  
     
    愛の新雪 (1975年1月シングルカット発売) 
    http://blogs.yahoo.co.jp/ycmay26/68985138.html ←(2014年1月22日付けのブログでご紹介しています)
     
    「愛の新雪」「杉の木峠の別れ」~アルバム 友情/舟木一夫の新しい名刺 (1974年10月発売)収録~
     
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    杉の木峠の別れ 作詩:石本美由起 作曲:竹岡信幸
     
    春の花なら 山椿
    秋の花なら 笹りんどう
    生まれ故郷に 別れをつげる
    君のこころの さみしさを
    泣くか山彦 泣くか山彦 オーイ
    涙ぐもりの 杉の木峠
     
     
     
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    人の別れを 西東
    しるす古びた 道しるべ
    土地が変われば 暮らしも変わる
    身体大事に するんだと
    風に叫んだ 風に叫んだ オーイ
    声がちぎれる 杉の木峠
     
    町の駅まで 七曲り
    別れ峠は 村境い
    旅の苦労に 疲れたときは
    意地を張らずに 帰んなよ
    思い案じて 思い案じて オーイ
    俺が待ってる 杉の木峠
     

    あゝ荒城の月かなし 作詩:石本美由起 作曲:遠藤実
    http://www.pideo.net/video/youtube/bfc58e73955d85ce/
    LP盤「オール・スター演歌の花道 石本美由起作品集」収録
      
    イメージ 11約束もない 恋ならば 
    また会うことも かなうまい
    しあわせいずこ 荒城に 
    春高楼の 歌哀し
      
    みどりの髪に 矢絣の 
    紫似合う 君はなく
    崩れて残る 荒城に 
    おもかげ草は 今も咲く
     
    月日はうつる 人の世に 
    変わらぬ姿 月ばかり
    待つ人もない 荒城の 
    草笛さびし 恋哀し

    *上記の「石本美由起作品集には」もう一曲「旅情」も収録されています。

     
    少女 作曲:山路進一 (1964年7月)
     
    花の匂いが するような
    少女に逢った 遠い町
    風に ふさふさ 前髪が
    ゆれて夕陽に 光ってた
    海につづいた 白い道
     
     
    舟木さんが「船村徹スペシャル」と「遠藤実スペシャル」でそれぞれ歌唱された曲のうち、石本氏の代表的な作品です。石本氏の作品には、日本のふるさとの情景がこぼれるような哀感に彩られた言葉で描かれているものがこの他にもたくさんあります。
     
    イメージ 12「柿の木坂の家 」 作曲:船村徹
     
    春には柿の花が咲き 
    秋には柿の実が熟れる 
    柿木坂は駅まで三里 
    思い出すなぁ ふる里のヨ
    乗合バスの 悲しい別れ
     
     
    「ソーラン渡り鳥」 作曲:遠藤実
     
    津軽の海を 越えてきた 
    ねぐら持たない みなしごツバメ
    江刺恋しや ニシン場恋し
    三味を弾く手に 想いをこめて
     ヤーレン ソーラン ソーラン ソーラン
    唄うソーラン ああ 渡り鳥
     
     
    わがやの庭に咲いている水仙とほとけのざです。
    寒さに負けず頑張ってま~す。春よ来い♪
     
     
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    イメージ 1私の地元の桑名の寺町商店街の脇の公園で、早咲きの「河津桜」がもう五分咲きになっていました。「桜」~「さくら」~「さくら仁義」(笑)どうしても、こういう連想ゲームになってしまいます。
    ・・・というわけで、今回は「さくら仁義」に関することをちょっと記事にまとめてみます。

     
     
     
    イメージ 4さくら仁義  作詩:すずきじろう 作曲:幸田成夫 
    (作詩・作曲、いずれも舟木さんのペンネームです
                                 15周年日劇公演記念曲 1977年6月発売)
    http://www.youtube.com/watch?v=ZLx3ezXDe_M  
    舟友kazuyanさんの動画です
     
    わらじ一年 合羽で二年
    長脇差(どす)を抱き寝も 三年越し
    さくら仁義に 啖呵の花が
    咲いて小粋な旅鴉
    なぜに堅気をすねたやら
     
    惚れた弱みを まぎらす酒に
    いつか呑まれて 涙ぐせ
    さくらつぼみの あの娘の肩に
    野暮なセリフを二ツ三ツ
    かけたあの日が命取り
     
    笠に重たい 渡世の義理を
    意地で支えて 越す峠
    さくら吹雪に おふくろさんの
    背伸びするよな 声がする
    それがやくざの泣きどころ
     

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    大阪・新歌舞伎座 
    1976年4月17日~25日
    ~舟木一夫特別公演 「さくら仁義」  
    一幕五場~
     
    新次郎:舟木一夫
    お志津:葉山葉子
    巾着切り紋太:なべおさみ
    おまさ:萬代峰子
    庄之助:北上弥太郎
     
    イメージ 13お芝居の内容についての詳細は、わからないのですが、葉山さん、なべさんなど今も舟木座長さんの座組になくてはならない舞台人の方が共演なさっていらっしゃいますから、きっと涙あり、笑いありのいい人情芝居だったことと想像しています。ご覧になった方、ぜひ、コメント等でその時の思い出や感想など教えてくださ~い!
     
    「さくら仁義(1977年6月発売) 
         アルバム「渡世人~舟木一夫 三度笠を歌う
                                                      (1972年11月発売)
     
    私が偶然のように舟木さんに再会してから急激に復活していったのは何故なのか自分でも不思議なのですが、やはりその理由は、舟木さんがステージ歌手としてコンスタントにコンサート活動をなさっているからなのでしょう。ライヴ派の私にとっては舟木さんとの再会はただ懐かしさだけのものではなくて、ナマのステージを堪能させてくれる「大人の歌い手」をやっと発見したという想いが一番のインパクトでした。
    ステージを拝見する度に、子どもの頃には気づきもしなかった舟木さんの歌の世界の奥深さと幅広さに驚いたり感動したりの連続でした。この想いは今も、現在進行形ですが・・・
    思春期の頃には、舟木さんが醸し出す雰囲気や、その持ち歌に登場する人物像への憧れが先に立っていましたから、「歌手・舟木一夫」という視点で見ていたわけではなかったように思います。「歌手・舟木一夫」の凄さに気づくことができたのは、恥ずかしながら私自身が還暦を過ぎてからです。つまり、舟木さんと「再会」した時初めて、「歌手・舟木一夫」の魅力と力量に開眼したのですね。そこから、私が「歌手・舟木一夫」の旅路を後追いする作業が始まりました。今、舟木さんの50年にわたる膨大な音源の、多くを耳にしているつもりではいますが、それでも、まだまだ未知の部分がたくさんあるかと思います。
     
     
    イメージ 17舟木さんは、若い頃から、青春歌謡、抒情歌、和もの…もちろん演歌もポップスも洋楽系もご自分の個性と歌唱力を駆使して鮮やかに歌われてきていますが、ごく客観的に舟木さんの膨大な持ち歌の中から誰でも知ってるヒット曲三曲を挙げるとすればちょっと乱暴ではありますが、「高校三年生」「絶唱」「銭形平次」…こういう感じかな?と思います。
    この三曲だけを見ても、それぞれのジャンルの歌を咀嚼する感受性や想像力の豊かさ、また、咀嚼し理解した世界を繊細かつ緻密に表現し具現化する力量は明らかです。そして、この力はプロシンガーとして不可欠な才能であると思います。
    「ブルースを歌いたくて歌手になった」と常々おっしゃっている舟木さんは「高校三年生」という明るく、爽やかな青春歌謡で多くの人の心をつかみました。そして「絶唱」では、哀感迫る抒情の世界を詠って、その歌唱力を評価されたのですが、その間に、「一心太助江戸っ子祭り」「火消し若衆」「喧嘩鳶」など、時代物の威勢のいい鉄火肌な男を主人公にした歌にも、独自の色合いを見せてその魅力を遺憾なく発揮してしています。その上、同じ時代物でも「右衛門七討入り」や「敦盛哀歌」で憂いの影がさすような薄倖の美少年を鮮やかに描ききっています。このように、まるで万華鏡のように様々な世界を「歌」を通して聴く者に届けることができるのは、天性のものがあったのだろうと今さらながら痛感しています。
     
    イメージ 18今回のテーマに取り上げたのは当時の舟木さんのイメージとしては異色とも言える「渡世人~舟木一夫 三度笠を歌う」です。「渡世人」「股旅もの」の流行歌のジャンルは舟木さんと同年代の歌手の中では橋幸夫さんの独壇場という印象がありましたから、こんなアルバムがあることを知った時にはビックリしました。
    今の舟木さんのステージのバラエティに富んだ構成力と歌唱力は言うまでもないのですが、二十代の若い頃からどんなジャンルの曲も一瞬にして自分の個性と世界観に引きつけてしまう才能豊かなプロ・シンガーだったことが、このアルバムを聴いてみてあらためてわかりました。

    ここで、蛇足かもしれませんが「渡世人」について・・・(以下ネットからの情報をもとに)
     
    イメージ 19渡世人
    渡世人とは日本という風土には、ヤクザ者にはヤクザ者なりの「道」というものが伝統としてあった。古今東西、悪党やならず者の生き方を「道」となぞらえたのは、おそらくこの国だけであろう。
    江戸時代、ヤクザ者の本場といえば何と言っても関東、それも上州であった。これは現代にも通じるものがあるが、当時一流の渡世人に必須とされていた事項は三つ、「腕、度胸、礼儀作法」と言われていた。上州はこれらにとりわけ厳しく、それ故上州で長年修行を積んだ渡世人は「上州長脇差」と呼ばれ、渡世人のみならず堅気の人間からも畏敬の念を抱かれていた。それ故、渡世人に憧れて上州を目指す若者も少なくなかったらしい。ちなみに、かの有名な大前田英五郎や国定忠治も、上州出身の渡世人である。

    渡世人は旅から旅への流れ者 
    渡世人(侠客)の旅には「落旅」と「急ぎ旅」があり落旅は一家の若い者の修行や使いの旅、急ぎ旅は兇状持ち(指名手配者)の逃走の旅を指す。江戸時代は侠客の旅の多くは急ぎ旅だった。
     
     
    イメージ 20仁義
    旅の侠客が土地の親分のところに草鞋を脱ぐ時に、仁義と呼ばれる独特の挨拶をする。仁義という言葉は「順儀」または「辞宜」という言葉が訛ったのが当て字になったもので挨拶という意味。
    仁義を受けるのは基本的に明るいうちであり、暗くなって灯火がともってからは受け付けないことになっていた。
    旅人は入口で三度笠を脱いで玄関に入る。出迎えの者は両手の親指を床について平伏する。旅人は長脇差を鞘ごと抜いて上がり框に置き、少し下がって両手を拳にして、手の甲を前に向けて腰の前に置く。そして「敷居内、御免蒙ります」と言うと、家の者が「さあ、お着きなさい」と言う。すると、旅人は右拳を敷居に於いて膝を着き、「お控えなさいませ」と言う。家の者もそれを言い返す。

    次に、旅人の方から「御仁義になりませんから、是非ともお控えなさいまし」と言う。家の者が折れて「逆位とは存じますが、お言葉に甘えてお控えさせて頂きます」と返す。つまり侠客の場合は下位の者が先に名乗るのが礼儀なのでこのようにするわけです。
    旅人は「斯様無様にて御免を蒙ります。手前生国は武蔵国豊島郡、名前の儀は○○と申しまして、仔細あっての急ぎ旅でございます。今日こうお見知り頂きまして、お引き立てのほどを宜しくお願い致します」と一気に言う。
    家の者は「申し送れまして御免下さいまし。手前は当家の××という若い者でございます。今日こうお見知り頂きまして、お引き立てのほどを宜しくお願い致します。さあ、お掛けなさいまし」と返す。
     
    旅人は上がり框に腰掛けると「懐中御免蒙ります」と言って手拭を見せる。これも作法の一つで、その手拭を見れば、相手の旅人がどれくらい旅を続けてきたかがわかる。
     
    仁義はこのように厳粛な様式でいわば挨拶と面接試験を兼ねたようなものですが少しでも作法に外れるようなことをやったが最後、即座に玄関払いを食わされてしまいます。
     
    仁義を受けてもらった旅人は、草鞋を脱いで足を洗い座敷に通される。そして一杯のお茶を出されますがこれを二口半で飲み干すことになっていた。これは滞在中にその家の親分に服従することを意味する。従って、もしも殴り込みでもあれば、当然助っ人として動員される。他にも出された飯は必ず二杯食べ、決して残してはならないこと(一杯では仏前の飯と同じで縁起が悪いから)等々、細かいところまで取り決めがあったのです。
     

    渡世人~舟木一夫 三度笠を歌う (舟木さんのとってもかっこいいナレーション入り)
    (1972年11月発売)
    流転/沓掛小唄/次男坊鴉/よさこい三度笠/旅姿三人男/名月赤城山/花の三度笠/浅太郎月夜/木枯紋次郎        
     
    セリフ(仁義)
    ~引きつけましての仁義失礼さんにござんす。御当家の親分さん、影ながら御免を蒙りやす。向かいまする上さんとはお初にござんす。事情あっての急ぎ旅、こんな恰好で挨拶も何もございやせんが、姓名の儀は上州無宿の異三郎と申しやす。お見かけどおりのしがねぃものにござんすが、お見知りおかれまして、以後よろくお頼ン申します。
     
    イメージ 21流転 作詩:藤田まさと 作曲:阿部武雄(編曲:山路進一)
    昭和12年(1932) 原曲:上原敏歌唱
     
    男 命を みすじの糸に
    かけて三七 二十一目(さいのめ)くずれ
    浮世かるたの
    浮世かるたの 浮き沈み
     
    どうせ一度は あの世とやらへ
    落ちて流れて ゆく身じゃないか
    泣くな夜明けの
    泣くな夜明けの 渡り鳥
     
    意地は男よ 情けは女子(おなご)
    ままになるなら 男をすてて
    俺も生きたや 
    俺も生きたや 恋のため

     
     
     
    イメージ 22セリフ
    ~渡世うちで、サイの目は「一天地六、向こうの四の二に前五、三」と呼ばれていやすが、特に四と九の目が嫌われるのは、死と苦に通じるからでございやしょう。一度、踏み込んだら、容易に抜けられねいこの世界で、死とぎりぎり背中合わせで苦しむのもヤクザなら、仁侠道に男の意地を立派に張るのもヤクザです。しかしどっちをとってみても、渡世人とはお天道さまも仰げないバカな人間の見本のようなものでございやしょう。

    沓掛小唄 
    作詩:長谷川伸  作曲:奥山貞吉(編曲:山路進一)
    昭和4年(1929) 原曲:川崎豊・曽我直子 歌唱
     
    イメージ 23意地の筋金 度胸のよさも
    人情からめば 涙ぐせ
    渡り鳥かよ 旅人ぐらし
    あれは 沓掛時次郎
     
    来るか時節が 時節は来ずに
    今朝も抜け毛が 数を増す
    今度の浮世は 男でおいで
    女とかくに 苦労がち
     
    千両万両に まげない意地も
    人情からめば 弱くなる
    浅間三筋の 煙の下で
    男 沓掛時次郎

    セリフ
    ~自分から好きで飛び込んだ世界です。何処かの街道の果てで、明日は生命を落としても誰の罪でもござんせん。自業自得というものでございやしょう。自分の心を支えるのは自分だけ。自分の生命を支えるのも自分だけ・・・おっ母さん、バカな息子と許してやっておくんなさい。

    次男坊鴉 作詩:萩原四郎 作曲:倉若晴生(編曲:山路進一)
    昭和30年(1955) 原曲:白根一男歌唱
    http://www.youtube.com/watch?v=_FzVP7fVk98 (舟木さん歌唱音源)

    イメージ 3どこへ飛ぶのか 次男坊鴉
    笠にみぞれの 散る中を
    なまじ小粋に 別れたせいか
    日光街道の 日光街道の
    灯がうるむ
     
    人が目をむく さむらいやくざ
    御奉行様から 賭場あらし
    泥溝(どぶ)の世界に 何故身を投げる
    訳はあの娘の 訳はあの娘の
    瞳(め)にききな
     
    恋がせつない 次男坊鴉
    逢うて三年 三度笠
    なんの今更 旗本ぐらし
    どうせ半目と どうせ半目と
    出たものを

     
     
    イメージ 5よさこい三度笠 作詩:星野哲郎 作曲:船村徹(編曲:山路進一)
    昭和35年(1960) 原曲:村田英雄歌唱
     
    待っているよと 追いすがる
    声を背中に ききすてて
    やぼでござんしょ 三度笠
    惚れていました 九分通り
    あの一分が 邪魔をした
    ヨサコイ ハァ ヨサコイ
     
    一夜見ぬでも 気がすまぬ
    三日逢わなきゃ どう変わる
    男心と 旅の空
    意地を張るのも いい加減
    止しな止しなと 百舌が鳴く
    ヨサコイ ハァ ヨサコイ
     
    俺も人の子 鬼じゃない
    みれんたっぷり 山二つ
    越せばやらずの 涙雨
    きいておくれか お地蔵さん
    のろけ噺の 一くさり
    ヨサコイ ハァ ヨサコイ
     
     
     
    イメージ 6旅姿三人男  作詩:宮本旅人 作曲:鈴木哲夫
    昭和13年(1938) 原曲:ディック・ミネ歌唱
     
    清水港の名物は 
    お茶の香りと 男伊達
    見たか聞いたか あの啖呵
    粋な小政の 粋な小政の
    旅姿
     
    富士の高嶺の 白雪が
    溶けて流れる 真清水で
    男磨いた 勇み肌
    なんで大政 なんで大政
    国を売る
     
    腕と度胸じゃ 負けないが
    人情からめば ついほろり
    見えぬ片眼に 出る涙
    森の石松 森の石松
    よい男

    名月赤城山 作詩:矢島寵児 作曲:菊地博(編曲:山路進一)
    昭和14年(1939) 原曲:東海林太郎歌唱
     
    男ごころに 男が惚れて
    意地が融け合う 赤城山
    澄んだ夜空の まんまる月に
    浮世横笛 誰が吹く
     
    意地の筋金 度胸のよさも
    いつか落目の 三度笠
    いわれまいぞえ やくざの果と
    悟る草鞋に 散る落葉
     
    渡る雁がね 乱れて啼いて
    明日は何処の 塒(ねぐら)やら
    心しみじみ 吹く横笛に
    またも騒ぐか 夜半の風
     

     
    イメージ 7花の三度笠 作詩:佐伯孝夫 作曲:吉田正(編曲:山路進一)
    昭和28年(1953) 原曲:小畑実歌唱
    http://www.youtube.com/watch?v=Op6PphEMXXg 
    (舟木さん歌唱音源)

    男三度笠 横ちょにかぶり
    おぼろ月夜の 旅がらす
    可愛や小柳 とめずにおくれ
    あけりゃ 明日の 風が吹く
    世話にくだけて エー 暮らしゃんせ
     
    野暮な白刃にゃ 体を張るが
    ままよ苦手な 色出入り
    こんな男に 惚れるなァおよし
    末の苦労が 目に見える
    想いつめずに エー暮らしゃんせ
     
    花の三度笠 柳がなびく
    乱れごころで なぜなびく
    知らぬ振りして 峠を越えりゃ
    またも身にしむ 通り雨
    想いだすよな エー ことばかり

     
    セリフ
    ~兇状持ちだから、一つところに落ち着くことはございやせん。信州、上州、下総、上総、それに東海道筋のあちこちを流れ歩いて気が付くとなぜかいつも冬でした。黒の手甲脚絆も色褪せ、道中合羽も破れ雑巾のようになって、渡世人の流れ旅は花も咲かねぇ、さむ~い冬の旅なんでござんすね。
     
    イメージ 8浅太郎月夜  作詩:坂口淳 作曲:吉田正(編曲:山路進一)
    昭和28年(1953) 原曲:宇都美清歌唱
     
    幼なじみの 赤城の月に
    影もやつれた 浅太郎
    意地と情けに ついはさまれて
    泣いて結んだ 男紅緒の
    三度笠
     
    風に追われて 上州鴉
    どこのねぐらに 帰るやら
    添えぬ花よと 諦めながら
    思い出しては お京恋しの
    里ごころ
     
    山の落葉か やくざの果ては
    月にこぼれる 草の露
    誰が吹くやら あの横笛は
    雁があばよと 雲の切れ間に
    啼いて行く
     
     
     
     
    セリフ
    あ~、また一人斬っちまったぃ・・・
     
    イメージ 9木枯紋次郎  作詩:丘灯至夫 作曲:遠藤実
    昭和47年(1972) 舟木一夫(オリジナル曲)
     
    風が吹くたび 心がさわぐ
    止めて止まらぬ 一本どっこ
    男一匹 情けは無用
    見たか聞いたか この腕を
    その名も 木枯紋次郎
    木枯紋次郎
     
    堅気育ちが どこかですねた
    すねて流れて 旅から旅を
    涙見せるな やくざの恋は
    どうせ夜明けの 空に散る
    その名も 木枯紋次郎
    木枯紋次郎
     
    広い世間に 背中を向けて
    どこへ行くのか 口笛ひとつ
    やけに吹きゃがる 冷たい風が
    さきは雨やら 嵐やら
    その名も 木枯紋次郎
    木枯紋次郎
     
     
    一般に知られている、テレビドラマ「木枯し紋次郎」のテーマ曲について
    テレビドラマの主題歌となった「誰かが風の中で」の作詞は市川(昆監督)の妻で名脚本家の和田夏十、作曲を「六文銭」を率いるフォークシンガーの小室等が担当、上條恒彦の熱唱と相まっておよそ時代劇には似つかわしくないものだったが、逆にその新鮮さが幅広い支持を得ることになり、結果的に1972年だけでシングル23万枚を売り上げる同年度屈指の大ヒット曲となった。(ウイキペディアより)

     
     
     
    イメージ 10「木枯紋次郎 作詩:丘灯至夫 作曲:遠藤実 (1972年)」
    上記のようにウイキペディアの丘灯至夫氏の項に舟木さん歌唱の作品も記載されているのですが、私自身はもちろんオンタイムで舟木さんが「木枯し紋次郎」に関する歌を歌っていらっしゃることなど全く存じ上げませんでした。作曲が遠藤実氏ですから舟木さんにとっては「舟木一夫」の生みの親のようなおふたかたによる作品がこのアルバムのラストを飾って収録されていることも舟木さんのそれまでのイメージの裏側にある歌い手としての隠れたもうひとつの新たな個性と力量への期待がうかがわれ、世に出ていない埋もれた曲ではあるのですが、私には、当時から舟木一夫の世界の広がりがその萌芽をみせていたようでとても嬉しく聴いています。

    なぜ、もうひとつの「木枯し紋次郎」の曲が生まれたのか
     
    丘先生か、遠藤先生かいずれかのご縁から「木枯紋次郎」を舟木さんが歌うことになったのかも・・という推測から、ネットで調べてみたのですが、かろうじて丘氏と中村敦夫さんに共通する土地が福島県というだけしか探し当てられませんでした。また、原作者の笹沢左保氏と舟木さんとの関わりは1969年公開の映画「いつか来るさよなら」(原作が笹沢氏の「廃虚の周囲」)がありますが、どのラインでイメージ 11舟木さんが「木枯紋次郎」を歌うことになったのかは残念ながら私にはわかりません。御存知の方がいらっしゃれば、教えてくださいね。

    丘灯至夫
    福島県田村郡小野新町(現・小野町)の西田屋旅館(現存)の六男として生まれる。1929年、福島県郡山市立金透小学校尋常科を卒業。1932年福島県郡山市立郡山商工学校(現・福島県立郡山商業高等学校)商業科を卒業。

    中村敦夫
    幼年期に東京大空襲があり、福島県平市(現在のいわき市平地区)に疎開。その後、在学していた福島県立磐城高等学校から東京都立新宿高等学校へ転校。
     
    イメージ 12ここでご紹介した曲の他にも舟木さんの「渡世人」を歌った曲のレパートリーはさらに広くて「ふれコン」などでは、「勘太郎月夜唄」「中山七里」「大利根仁義」「雪の渡り鳥」「関東春雨傘」「八州喧嘩笠」などを何度
    か歌われているようです。記憶に新しいところでは南座「シアターコンサート~遠藤実スペシャル」で歌われた「天竜母恋い笠」も、このジャンルの曲といえます。
    後年、舟木さんが「ひるね」から目覚めて、再び芸能界の表舞台に快進撃をかけていかれた座長公演では、たくさんの「渡世人=股旅もの」のお芝居に取り組んでいらっしゃいます。二十代の明治座などの座長公演では、まだこのジャンルのお芝居はなさっていませんでしたから、15周年記念の「さくら仁義」が初めての本格的な「渡世人」を主人公にしたお芝居だったかと思われます。その後、30周年記念として1993年に東京・博品館劇場で「瞼の母」開催。翌年には池袋サンシャイン劇場を皮切りに全国31箇所で「瞼の母」を再演されています。さらに同年に、名古屋中日劇場で「次男坊鴉」、大阪新歌舞伎座では「はぐれ鴉」とたて続けに、「渡世人」を主人公にしたお芝居を開催されているのも注目すべきかと思います。1999年には「沓掛時次郎」の全国ツアー公演。2001年には大阪・新歌舞伎座で「鯉名の銀平・雪の渡り鳥」、同年新橋演舞場で「沓掛時次郎」再演。その後も、これらのお芝居を再演なさっていて「渡世人=股旅もの」は舟木さんの座長公演の中で大きな位置を占めるジャンルとなっていることを思うと、この二十代の終り頃に制作されたアルバム「渡世人~舟木一夫三度笠を歌う」は、その後の舟木さんの「復活」を後押しする「芝居とコンサート」への布石とも思えますし、「さくら仁義」というお芝居も、開催期間は十日足らずという比較的短期間公演ではあったのですが、何か復活への一里塚のような意味合いを持った舞台作品であったような気がしています。
     
     舞台「さくら仁義」の楽屋での舟木さん。 私はこの写真を見て息を呑むほどの美しさにしばし動悸がとまりませんでした
     
    イメージ 14
    イメージ 15
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    舟木さんの渡世人姿は端正で凛々しく、「人生の裏街道をゆく流れ者」というアウトローの美学を絵に描いたような佇まいを感じさせます。一流の渡世人に必須とされていた事項は三つ、「腕、度胸、礼儀作法」・・・この言葉は、そのまま芸能に携わる人にも充てはめることができるのではないかと、ふと、思いました。少しだけ言葉を換えてみると「技能、器量、品格」に通じるのではないでしょうか。「歌手・舟木一夫」の美学は「孤独を引きうける厳しい姿勢」かも知れないと思うことがあります。ある意味、芸人はアウトローであることにその存在価値があると私は考えています。日常という世界にぬくぬくと浸りきらない、浸りきれない性(さが)とか業(ごう)とか・・・そんな心の闇がなくては、真の「芸人」にはなれないのではないかとさえ思っています。私にはちょっと淋しいのですが、現代では、そんな「芸人」が、なかなか育ちにくいのでしょう。そういった意味でも舟木一夫は、最後の「アウトローを感じさせる芸人」のような気がしています。だからこそ「渡世人」の世界をこうもリアルに歌い、演じることができるのかも知れません。
     
    イメージ 16

    今回も、舟友さんから実にたくさんの資料をご提供いただきました。ここに掲載させていただいた「さくら仁義」に関する数々の若い日の舟木さん演じる「新次郎」の陰影深い表情は、「渡世人の美学」の体現のように思えます。惚れ惚れするような美しさと孤高の厳しさが胸の奥深くまで沁み込むように伝わってきます。
    舟木さんの旅路の貴重な資料のご提供を心から感謝いたします。ありがとうございました。

     

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    東日本大震災から丸三年、三年前のこの日、私は兵庫県神戸市内の職場のパソコンで作業をしていてネットで調べものをしていました。午後三時半ごろに、ヤフーのトップページに押し寄せる大きな津波の動画が映し出されました。最初はCG映像かなにかのような感じで、すぐには理解できませんでした。文字としての説明が目に入るより先に映像から恐ろしさを感じました。「大変なことが起きている」ということしかわかりませんでした。職場では揺れも全然、感じることはありませんでしたから、ニュースで大地震が発生して大津波が東北の太平洋側の街に押し寄せてきたということを知るのにかなり時間がかかりました。それから、時間が経つにつれて言葉にならない悲惨な状況が次々にわかっていく日々は、本当に日本中の誰もが不安と心配と、東北に暮らす方たちの安否を思うだけで過ぎていったように思います。あれから三年、私たちにとってはもう三年・・という想いがあるのが正直なところなのかもしれません。でも、おそらく被害に見舞われ、最愛の人を失った方たちにとっての時間はあの日から止まってしまっているのでしょう。
     
    イメージ 1
     
    私は1995年1月17日の阪神淡路大震災を経験していますが、あれほど怖いと思ったことは、私の経験では初めてのことでした。1959年(昭和34年)の伊勢湾台風で家のすぐそばの堤防が決壊して徐々に水が床下から床上まで上がり、幸いに別棟の奥の家が二階建てだったので、小学一年生だった私は父の肩車で別棟の二階まで運んでもらいました。水深は父の胸のあたりまであったことをはっきりと覚えています。でも、阪神淡路大震災の時は、直接的な被害はなかったものの、もっと恐ろしい想いをしました。当時、私の状況は既に母子家庭でした。末娘はまだ小学二年生でした。私しか、娘を守る人はいないという気持ちがあったので、余計に怖かったのだと思います。まだ「夢の中」にいる末娘の上に布団をかぶせて、脇に置いている家具を必死で素手で倒れないように押さえました。嵐の海の船底にいるような感じの揺れがしばらく続いていた時間はとても長く感じました。私の人生の中で、このふたつが自然災害の恐ろしさを体験した一番大きなものです。幸運にもみんな無事でこうして元気にしているのですが、どこでだれに降りかかってきても不思議ではない災害であることは身をもって体験しています。
     
    イメージ 2東日本大震災からの復興は、どうも思うようには進展しているようには思えません。日本人は、我慢強い、そして、ことに東北人は我慢強いと言われていますが、本当にこの三年という歳月をどのようなお気持ちで過ごしてこられたかを思います。日常生活の中では、自分のことに追われて日々暮らしていますが多くの犠牲になられた方々の鎮魂と、大切な人や大切なふるさとを失ってしまった方々のことに想いを馳せる一日にしたいと思い、せめてなにか、私の想いだけでも発信させていただきたくて、大切な人、愛する人の「ふるさとへの想い」に心を寄り添わせた舟木さんの歌唱による「あなたの故郷」をご紹介します。
     
    はるか遠くの東北の空と、その空の下に暮らす人たちへの想いを込めて。合掌
     
    復興の進展に向かって、被災された方々が四年目のスタートを明るい気持ちできることができますよう心からお祈りします。
     
     
     
     
    あなたの故郷 作詩:石本美由起 作曲:船村徹
    http://www.youtube.com/watch?v=lML7EHApqEo 舟友のkazuyanさん制作の動画です
     
    イメージ 3るるるるるるるる
    るるるるるるるる・・・
     
    あなたがうまれた 町だから
    山と小川に かこまれた
    静かな町が 僕は好き
     
    あなたに似ている 花だから
    丘の夕陽に 咲いている
    野菊の花が 僕は好き
     
    あなたの笑顔の あかるさを
    映して光る 空のいろ
    あなたと重ねる てのひらを
    くすぐるような 秋の風
     
    イメージ 4あなたが馴染んだ 笛だから
    星さえ耳をかたむける
    祭りの笛が 僕は好き
     
    (語り)
    あなたに似ている花だから
    丘の夕陽に咲いている
    野菊の花が僕は好き
     
    あなたの夢の ゆりかごも
    僕には旅の 町だけど
    あなたの故郷が 僕は好き
    あなたの故郷が 僕は好き
     
    イメージ 5あなたがうまれた 町だから
    山と小川に かこまれた
    静かな町が 僕は好き
     
    るるるるるるるる
    るるるるるるるる・・・

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    2月6日の大宮ソニックシティ大ホールに続いての2014年の通常コンサートが相模大野の相模女子大グリーンホール大ホールで開催されました。

    セットリストは変わりませんが一応記載します。

    オープニング
    ~立ち話

    東京は恋する
    くちなしのバラード花咲く乙女たち
    友を送る歌


    その人は昔

    北国の街
    哀愁の夜
    高原のお嬢さん


    宵待草
    ゴンドラの唄
    浮世まかせ


    明日咲くつぼみに

    あゝ青春の胸の血は君たちがいて僕がいた
    高校三年生
    学園広場


    初恋
    夕笛
    吉野木挽唄~絶唱


    アンコール
    ~君よ振りむくな
    スタンディング


    携帯からなので簡単ですみませんが、とっても嬉しいグッドニュースがあります。速報としてはそれをメインにご報告します。


    オープニングの「立ち話」のあとは「どうやら、やっと春の足音が聞こえてきたという感じになりましたね…」とご挨拶があり、続いてプレゼントタイムのメドレー4曲の後に「近頃は毎度申し上げてるように、あまり役に立たない新曲を出すのはやめよう…と僕はブルースが好きだからと『夜霧の○○』とか作ってもステージのどこにおいたらいいかわからない。一曲だけおいても戦力にならない。50周年で『明日咲くつぼみに』を出しましたが今年も一曲出るみたいですが…こないだレコーディングしてきたんですが…どんなのかはナイショ(笑)」

    …といかにも舟木さんらしい控え目なアナウンスでしたが、さてさて、どんな作品なんでしょうね。舟木さんのお話の脈絡から想像するとこれからのステージでメインブロックになるような曲たちのシンボルとなるようなものかな?とワクワクしますね。

    舟木さんのトークはこんな風に全てを語らないところがニクいです(笑)

    でも本当にビッグニュースですよね
    コンサートの詳細はまた後日に

    写真の舟木さんは今年のグッズ新商品の2枚組クリアファイルです。それぞれ裏は別の舟木さんのポーズですから4枚組の写真という感じです。実用的だし舟木さん関連のチラシや資料が入れられるからオススメです。
    2枚組600円也です。

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                                    3月12日、新幹線の新富士駅付近で撮影した富士山
    イメージ 12月6日の埼玉県・大宮ソニックシティ・ホールに続いての通常コンサートが神奈川・相模女子大グリーンホールで開催されました。今回も、その前日までは真冬の寒さでしたが、この日はうららかで、小田急線の相模大野駅からホールまでの10分ほどの距離は、コートを脱ぎたくなるほど暖かでした。昨年の3月にも同じ会場でコンサートが開催されましたが、私はこの時はパスしてしまったので初めてだったのですが、客席の設計が良くて座席の配置が前後でズラしてあるのと、階段の傾斜がしっかりとってあって前後の列のセンター通路から後ろの席でも比較的見易くて、いいホールだと思いました。
    イメージ 2
    では、いつものように、舟木さんのトークを交えてコンサートの進行に沿ってのご報告です。
    ピンク文字は舟木さんのトーク部分です。(昼夜をまとめています)
     
     
    昼 14時30分 夜 18時30分
     (各回休憩なし約100分)
     
    柿の実色のジャケット、白いシャツ、黒のベストに黒のパンツ(サイドに黒サテンのライン入り)、黒の蝶ネクタイ、胸に白バラで登場

     
    イメージ 12オープニング~
    立ち話
     
    やっと春の足音が聞こえてきたという感じになりました。でも、そうなると今度は花粉症という人もいて・・自分は全然そういうのがないんでわからいんですが、歌い手にもそういう人がいて、ステージで花をいただけない人もいて受付でお預かりすることになる・・・お客様の中にも・・ご愁傷様です・・出てくるそうそうくしゃみの話なんかしてますが・・お忙しいところどうもありがとうございます。歌い手はだんだんと変化していきますから、今日は、そういうところを楽しんでいただけたら・・と先ずは4曲をメドレーで、プレゼントタイムも兼ねて。
     
    東京は恋する
    くちなしのバラード
    花咲く乙女たち
    友を送る歌
     
    イメージ 23「♪夢を育てた 青春の日よ・・」と「友を送る歌」の歌詩を引用して・・考えてみたら青春のど真ん中で青春の歌を歌ってたわけですから・・50年、いい時も悪い時もありましたけど、18(才)の時からやってきましたから、オレはコレ(歌う)するためにだけ生まれてきたという・・今年の12月にはコレ!・・と空に「70」と書いてみせるお茶目な舟木さんです。いい歌でもヒットしないのもありますが、ヒットした歌は必ず、どっかツボがあっていい歌なんですね。そういう歌を皆さんから選んでいただいた。
    ~このあと、「新曲」のことをなにげに話されましたが、それは最後に記します~
     
     
    ここで一曲だけ単独で・・と客席にくるりと背を向けて舟木さんの美しい後ろ姿のシルエット。シルエットの向こうは深紅のライトが燃えながら水平線に沈んでいく夕陽のように映えます。イントロが終わりこちら向きになって歌い始めると天井から幾筋もの乳白色のライトが降り注ぎ舟木さんを照らしだします。ラストは再び後ろ向きになった舟木さんが深紅の夕陽に向かってしっかりと地に足をつけて立つ姿が凛々しく、私は「その人は昔」の物語のラストに「恋人のようこ」を失ったかずおが再び東京に出ていくことを決意する場面を思い出しました。
     
                                            画像は、ながやす巧氏のコミック版「その人は昔」より
     
    イメージ 24
    その人は昔のテーマ   作詩:松山善三 作曲:船村徹
     
    イメージ 19
    その人は 昔
    海の底の 真珠だった
    その人は 昔
    山の谷の 白百合だった
    その人は 昔
    夜空の星の 輝きだった
    その人は 昔
    僕の心の 灯だった
    でも その人は
    もう 今は
    いない
    その人は 昔
    僕の すべて
    今もその人は
     
    思い出の 丘に咲くイメージ 20
    ひな菊の花
     
     
    その人は むかし
    僕の いのち
    今もその人は
    僕の日記を 埋める
    かがやき
     
    その人は むかし
    僕の ちから
    いまもその人は
    僕をやさしく みつめる
    こいびと
     
    イメージ 25でも その人は
    もう 今は
    いない
    その人は 昔
    玉石の
    荒い
    波ぎわイメージ 3
     
    若駒の
    たてがみ
    つかみ
    いらだつ
    海の向こうを
    見ていた
    胸をはって・・・
     
     
     
    イメージ 4
     
     
     
    イメージ 21
     
     
     
     
     
     
     
    これは船村先生の組曲で、この歌は松山善三さんの詩・・というより脚本なんですね。映画の台本をいただいた時、こんなに厚くてシーンナンバーが840まである。でも、中をめくってみると1ページにワンシーン「冬の雪山」とか書いてある(笑)
                                                                 こんな映像をイメージした台本だったんでしょうね↓
     
    イメージ 22内藤洋子さんという目のくりっとした女優さんと撮った映画です。ぼくが22才、彼女は16才だったかな、その次の映画(「君に幸福を~センチメンタル・ボーイ」のこと)を撮ってた時に17才の誕生日だったから・・・これはテレビでは歌えない、というか歌わせてくれない、なにしろ4分○秒くらいありますから。こういうのはコンサートでお聴かせするより手がない。
     
     
     
    船村先生はこの歌が好きで酔っぱらうと歌うのが「夕笛」とこの歌。こないだ先生が歌った「夕笛」のテープを聞いたら「おさげ髪 君は十六」だって・・三つも年が上になってる(笑)
    歌い手は自分の色がはっきりと御客様に伝わるまで5年はかかる。曲で云うと10曲から15曲あれば、そこそこ長い旅路につながるということになります。僕の場合はデビューがアレ(高校三年生)ですから後がたいへんでしたよ。そこからいったいどこへ行くか・・今から歌う三つは僕の歌の中では時代を背負っているといってもいい名曲中の名曲。
     

    北国の街
    哀愁の夜
    高原のお嬢さん

    流行歌の一番いいところは、時代の風景が出てくる。風とか香りとか自然にふっと出てくるところ。歌い手も長くやっているとうっかりすると歌い慣れしてくるといけない。「哀愁の夜」とか「高原のお嬢さん」は難しいイメージ 5歌です。若い頃にこういう曲を歌わせてもらったのは良かった。変に崩さずもとのままで・・
    もうそろそろ俺自身が楽しんで歌を歌ってもいいんじゃないかと・・・長いこと歌っている歌い手がいつもいつも「迫って」歌ってると御客様も疲れてしまう(笑)
    今年から「日本の名曲」をステージにのせていこうと思ってるんですが、僕自身がリアルタイムで間に合っていない、例えば田端義夫さんの「かえり船」とかよりは後の時代の「舟木一夫が歌うとその時の風が吹く」という歌を歌うのでないと御客様に届かない。「マーガレット」なんかを読んでた世代が僕の世代の一番下。そこでのアンケートで「お兄さんになってほしいタイプ」の第一位に選ばれたことがあるんですよ。
    ~といきなり「マーガレット」という少女雑誌の名前が出てくるのも昭和30年代から40年代に少女時代だった私には嬉しいものでした。いつの時代にも通じる歌、古典・・私もだいぶ「古典」になってきましたが・・いつの時代にもある心情をちょっと楽しんでみて下さい。
     

    イメージ 6宵待草 作詩:竹久夢二 作曲:多忠亮
     
    待てど暮らせど 来ぬ人を 
    宵待草のやるせなさ
    今宵は月も出ぬさうな
     
    イメージ 9
     
     
     
     
     
     
     
     
    (以下西條八十詩)
    暮れて河原に星一つ 
    宵待草の花が散る
    更けては風も泣くさうな

     
     
     
     
    ゴンドラの唄  作詩:吉井勇 作曲:中山晋平                         夢二画のセノオ楽譜「ゴンドラの唄」
     
    イメージ 8いのち短し 恋せよ乙女
    あかき唇 あせぬ間に
    熱き血潮の 冷えぬ間に
    明日の月日は ないものを

    いのち短し 恋せよ乙女
    いざ手をとりて かの舟に
    いざ燃ゆる頬を 君が頬に
    ここには誰れも 来ぬものを
     
    いのち短し 恋せよ乙女
    黒髪の色 褪せぬ間に
    心のほのお 消えぬ間に
    今日はふたたび 来ぬものを
                                                   
    浮世まかせ
     
    「浮世まかせ」はフォーコーラス、春夏秋冬なんですが、秋をとばしてしまった(スリーコーラス目にツーコーラスの「夏」の歌詩になってしまったことを指して「秋」をお聴きになりたい方は、夜の部にも・・(笑)
    一ヶ月公演の時は、必ず「高校三年生」を一回は間違えますね。「宵待草」は歌詩として詠った歌ではなく、一番しかなかったのですが西條八十という人が、一番しかないのはもったいないと二番を作った。「ゴンドラの唄」は、「生きる」という映画の公園でブランコに腰掛けて歌うラストシーンが有名。今にも通じることを言っている。どこまで時代が進んでもおなじことが起こりますね。「いのち短し 恋せよ乙女」・・客席に向かって意味ありげに「ふ・ふ・ふ」と笑いかける舟木さんのいたずらっぽい目が可愛すぎ!
    自分の持ち歌だけというコンサートはそろそろ切り上げて、「日本の名曲」を・・

    「宵待草」は、一番~二番~インストゥルメンタル~一番という構成でした。ラストは舟木さんのシルエットで「今宵は月も 出ぬさうな」、このフレーズがリフレインでもう一回重なり、最後を高くあげて余韻を残すという独創的なアレンジでした。いわゆる「歌曲」調の歌い方ではなくあたかも舟木さんのオリジナルのようで「舟木歌謡」とでもいいたくなる「宵待草」となっていました。大宮でのこのバージョンの初披露の時に感じた予感、これらの古典の名曲は、きっと徐々に舟木さんご自身の色彩が鮮やかになっていくだろうと思ったことが、既に二回目で予感通りになっていることイメージ 7がとっても嬉しくまた驚きでもありました。「船頭小唄」は、今や舟木さんのオリジナルといっていい境地に達していますが、「宵待草」「ゴンドラの唄」もそういった地位を占めていくようになるだろうと思います。
     
    ←松井須磨子
    ゴンドラの歌:1915年(大正4年)に発表された歌謡曲。芸術座第5回公演『その前夜』の劇中歌として生まれ、松井須磨子らが歌唱、大正時代の日本で流行した。
     
     
    「宵待草」はマイナーコードであるのに対して「ゴンドラの唄」は、明るい太陽の陽射しの暖かさを思わせる古き良き時代の大らかさ、のびやかさという「恋を謳歌する」メジャーな曲調でまた全然違った魅力を舟木さんから引きだすような歌だと感じました。すべてが自由すぎる現代はむしろ昔は「恋愛」につきものだった「熱」というイメージ 10ものが失せてきたように思うのは私だけでしょうか。特に若い男女の「恋愛」がなにかにつけて規制され抑圧されていた明治~大正の時代には「恋愛の熱情」は今よりも数段強く激しかったように思います。与謝野晶子に代表される情熱的な短歌の世界と相通じるものを「ゴンドラの唄」からイメージします。「いのち短し 恋せよ乙女」・・その詩はまるで「恋愛のススメ」そのものです。これぞ大正浪漫の世界のシンボルといっていいかと思います。こういう古典的な歌曲を今の舟木さんのお声で聴かせていただけるのは本当にうイメージ 11れしいことです。御自作の「浮世まかせ」の時の舟木さんのお顔は、穏やかで温かさに満ちていて本当に「いいお顔」だなァといつも思います。春夏秋冬・・私は夏の歌詩がお気に入りです。「遠い父母 抱くもよし」このフレーズを初めて聞いたときは、舟木さんという人の情の深さがストレートに伝わってきて胸迫る感動を覚えました。舟木さんがトークで「古典」である所以とする「普遍性」が間違いなくこの「浮世まかせ」にも描かれていて、名曲の二曲と並べてもなんら遜色を感じさせません。これは「初恋」「絶唱」などの抒情歌の名曲と舟木さんの御自作の「恋唄」を並べても全く違和感なく、感じられるのと同じだと思います。

    ここまでが前半。
     
     
     
     
     
    出て来た時から、今まで「オマエ、全然衣裳が変わらないな」と思ってるでしょ。69(才)の男が着替えしな
    くてもよろしいような・・替えた方がいいですか?・・じゃ、替えます。
    ジャケットを替えたら大きな拍手。
    の衣裳は変わり映えしないですから来年あたりから「詰衿」にもどろうかと・・(笑)
    いろんなことがありましたが過ぎたことはみんな0K!面白かったことも悲しかったことも自分の歩いて来た道に咲いてた花をうっかり踏んじゃった痛みを伴う想いの方が、ぬくもりを運んでくれる・・・
    舟木さんのトークはなんて詩的なんだろう・・日常的にこういう発想がなければこんな素敵な表現は付け焼刃ではできるもんじゃない・・ステキ過ぎる!
    僕らの世界は十年やっても半人前ですが、若い頃の若さがギュッと詰まった歌をデビュー当時にジャンプしてみようと・・歌ってもうれしく、気持ちがいい・・「明日咲くつぼみに」から

    ジャケット着替え~ラメ入りの渋い深緑。
     
    イメージ 13明日咲くつぼみに
    ああ青春の胸の血は
    君たちがいて僕がいた
    高校三年生
    学園広場

    30代に入った頃は今歌ったような歌がうらめしくもあったんですが・・・自分が行きたかった方角へ行けなくなったから。いつになったら離れられるのかという時代があった。今となっては「高校三年生」「学園広場」で良かったなぁ・・・と。さっき申し上げた「風」というのがおわかりになると思います。昔は一家に一台テレビがありませんでしたから、友だち~薬屋でした~の家にテレビを見にいったりしてた。お客様に育ててもらったそんな時代の歌の風景を自分の中においておかなくては申し訳ないですから・・・
    ラストブロックは落ち着いた歌で・・

    イメージ 14初恋  作詩:島崎藤村 作曲:若松甲
    まだあげ初めし前髪の
    林檎のもとに見えしとき
    前にさしたる花櫛の
    花ある君と思ひけり
     
    わがこゝろなきためいきの
    その髪の毛にかゝるとき
    たのしき恋の盃を
    君が情に酌みしかな
     
     
    夕笛  作詩:西條八十  作曲:船村徹
     
    イメージ 15
     

     
     
     
    吉野木挽唄
    ~絶唱  作詩:西條八十 作曲:市川昭介
     

    今年の通常コンサートでラストブロックにおかれたのは、やはり抒情歌。これらは単に舟木一夫の抒情歌の最高峰というだけの枠から大きく翔いて、ファンならずとも、日本人であれば、その心情の根っこの部分を一番ナチュラルに揺さぶられるであろう「懐かしく美しい日本の原風景」を描いた一幅の絵画のようでもあると思うのです。そういった意味でも私は、2014年の通常コンサートがツアーコンサートとして全国各地で開催されないことをとても残念に思っています。できるなら、2015年も、今年の構成に準じた形で開催され、ひとりでもたくさんの方たちの耳に届くことを願っています。
    イメージ 16「初恋」島崎藤村、「夕笛」「絶唱」西條八十・・・日本の美しい自然と日本の美しい言葉、消えゆく故郷の暮
    らしの風景や町並みは、もうこれらの優れた詩人が残してくれた詩歌の中にしか見いだせなくなりつつある今だからこそ、大切にしていきたいと思います。また「吉野木挽唄」は民謡であり、民謡はその土地に生まれ、育ち、そこで生業(なりわい)を営む人々の労働風景から生まれたものがほとんどです。自然環境や生活習慣の変化で姿を消してしまった「仕事」も多々あります。舟木さんは若い頃から都会の若者の暮らしや恋を歌った歌だけでなく地方に根差し、その土地ならではの家業を継いで働く若者たちを歌った歌も生き生きとした表現力で歌唱されています。海で働く青年の「浜の若い衆」「磯浜育ち」、山で働く青年の「木挽哀歌」「ひぐれ山唄」など・・・「吉野木挽唄」は「絶唱」の原作にも登場していて映画「絶唱」の中でも歌われています。ことに映画では戦争によって引き裂かれた順吉と小雪が遠くはなればなれになっていても同じ時間にこの唄をお互いの無事を願いながら、それぞれのいる方角に向かって歌うというシーンがあってとても重要な役割を担っている歌です。これは「歌の持つ力」を端的にあらわした素晴らしい視点であり、歌がどれほど人と人との絆をしっかりつなぎとめるものであるかを示している点でも、歌手・舟木一夫が「絶唱」の園田順吉を演じたことは、大きな意味を持っているとさえ思えます。

    イメージ 17アンコール~
    スタンディング&サインボール
    君よ振りむくな

    ここで、オープニング「立ち話」の後に続いたメドレー4曲が終わっての舟木さんのトークにちょっとプレイバックさせていただきます。ひとつ前のブログ「速報!」でも既にお伝えしましたが、「新曲」についてこの日舟木さんからアナウンスがありました。私の記憶の範囲ですが、再度書き添えておきます。
    近頃は毎度申し上げてるように、あまり役に立たない(ステージにおけないという意味のようです)新曲を出すのはやめよう…と僕はブルースが好きだからと「夜霧の○○」とかを作ってもステージのどこにおいたらいいかわからない。一曲だけおいても戦力にならない。50周年で「明日咲くつぼみに」を出しましたが今年も一曲出るみたいですが…こないだレコーディングしてきたんですが…どんなのかはナイショ(笑)
     

    イメージ 18また、ラストブロックの3曲の前にこんなこともおっしゃいました。
    50周年の時に70(才)までいければなぁと思った。でも、そうなるともう・・ね(笑)80(才)まで歌っている先輩もいらっしゃいますしね。そこまでではなくても55周年までは・・どうか今後とも宜しくお願いします。
     
    舟木さんは本当にステージがお好きで、55周年までの活動のフィールドは全てステージを念頭においていらっしゃることは明らかです。「新曲」というのも、いわゆる昔のイメージのレコード歌手・・レコードを出してヒットさせることが第一の使命・・としてのスタンスで考える「新曲」というのではなく、ステージの中で光を放ちステージをしっかり支えることができる「曲」を追求なさった末に生まれた「新曲」なのだと思います。
    ただ、ステージはナマものですから、発信する側と受け手の想いが一体となった時に、舟木さんにとっても私たちファンにとっても嬉しい「新曲」になるのだろうと思います。多分、「同世代だけに向けて」と何年か前におっしゃった舟木さんの心の中には、客席に居て聴く側の私たちと一緒にステージで育てていけるような曲にしたいという想いがおありなのではないかと私は感じています。いい「新曲」になるのかどうかは、私たち聴き手の姿勢にも関わってくるのだとしたらそれは舟木さんと私たちとの共同作業というとっても幸せで楽しい仕事になるのではないでしょうか。本当に楽しみですね。
     
     
     
     
     

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    イメージ 1312日の相模女子大・大ホールから5日空けての通常コンサートです。当日のコンサートのトークの中で、堺市民会館が建て替えのために今月末でいったん閉館になり、5年後の平成31年度に新たにオープンするということ、またこの会館のオープンが昭和40年(1965)1月で、その年の8月に開館記念イベントとして「舟木一夫ショー」が開催されたこと、そういったご縁から、今回の閉館にあたって舟木さんにオファーがあったことなどを知りました。後ほど、コンサートのご報告の中で舟木さんのトーク内容として詳細をご紹介します。
    私事ですが、長い間関西に暮らしていたのですが、堺へは二度ほど落語会に足を運んだ折に行ったことがあるだけで、実質は街中を歩いたのは、今回が初めてでした。以前から堺という町は、与謝野晶子が生まれ育ったということですから一度歌碑めぐり(市内だけでも23基)をしたいと思っていたので、これも何かのご縁かと思って、朝一番の近鉄特急に乗って、堺へは朝の9時半ごろに到着しました。小雨模様でしたが、本降りにはならずラッキーでした。
     
    イメージ 24与謝野晶子(正字:與謝野晶子、よさのあきこ)
    1878年(明治11年)12月7日 - 1942年(昭和17年)5月29日)は、日本の歌人、作家、思想家。
    本名は与謝野志よう(よさのしょう)。旧姓鳳(ほう)。ペンネームの「晶子」の「晶」は、本名の「しょイメージ 25う」から取った。夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)。堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町西1丁)で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として生まれた。家業は没落しかけており、三人目の女の子であったため両親から疎まれて育つ。実の兄にはのちに電気工学者となる鳳秀太郎がいた。9歳で漢学塾に入り、琴・三味線も習った。堺市立堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)に入学すると「源氏物語」などを読み始め古典に親しんだ。また兄の影響を受け、十二、三のころから、「柵草紙」(後には「めざまし草」)「文学界」や紅葉、露伴、一葉などの小説を読むのが一番の楽しみであった。1904年(明治37年)9月「君死にたまふことなかれ」を「明星」に発表。1911年(明治44年)には史上初の女性文芸誌「青鞜」創刊号に「山の動く日きたる」で始まる詩を寄稿した。子だくさん(12人出産)だったが、鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、彼が大学教授の職につくまで夫の収入がまったくあてにならず孤軍奮闘した。来る仕事はすべて引き受けなければ家計が成り立たず、歌集の原稿料を前払いしてもらっていたという。多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を女たちとともに開いたりし、残した歌は5万首にも及ぶ。「源氏物語」の現代語訳「新新源氏」、詩作、評論活動とエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。

    イメージ 26堺市には一番西の海際に、南海本線の「堺」という駅があり、その東側に南海高野線の「堺東」という駅があり、さらにその東側に、JR「堺市」という三つの鉄道の駅があることをネットで地図を調べていて知りました。コンサートの会場の市民会館の最寄り駅は「堺東」ですが、先ずは、街歩きをするので南海本線で難波から10分ほどの「堺」で下車して、駅の西口にある与謝野晶子像とご対面。その後は、晶子の生家跡に向かいました。
     
    イメージ 27
     
    堺市内には晶子の歌碑は20箇所以上あります。もちろん全部は回れませんが、他にも、堺市女性センターや、コンサート会場の市民会館前にもありました。
    イメージ 28
     
     
     
    イメージ 29
        市民会館玄関正面の庭の晶子歌碑→
     
    市民会館の場所と晶子の歌碑を確認してから「堺東」駅に向かっていると舟木さんの「入り待ち」に向かうファンの方たちが三々五々、市民会館方面に歩いていらっしゃるのに遭遇しました。後で「入り待ち」の時の舟木さんのご様子を舟友さんからお聞きしたところ、雨が降っていたので傘をさしかけられていた舟木さんは、ファンの方たちにお顔がみえるように皆さんの方に向いて2、3分顔を上げて下さったとのことです。雨の中「入り待ち」をなさったファンへの心遣いに皆さん喜んでらしたとのこと。いいお写真が撮れた方が、ブログなどで公開して下さるかも知れませんから楽しみにすることにしましょう。
     
    イメージ 30私は、その後、南海高野線とJR線をそれぞれ一駅ずつ乗り継いで「堺市」で下車。堺市文化会館内の与謝野晶子文芸館を見学して「晶子をめぐる街歩き」は終了。再び同じ経路で「堺東」駅に戻って舟友さんと合流。お茶しながら舟木さん談義に花を咲かせてから市民会館に向かいました。
     
      ←文芸館のショップで買った一筆箋と絵ハガキセット
     
     
     
    では、この日の舟木さんのトークを交えたコンサートのレポです。昼夜とりまぜてます。
    (ピンクの文字が舟木さんのトーク部分)

    イメージ 3オープニング
    ~立ち話
     
    どうやら春らしくなってきましたが、そうなるとアレルギーの方は花粉症になったりと・・私なんか原始人ですからそういうことはなくて・・子どもの頃、田舎で乱暴に育ってるから。まぁ、複合汚染ですかね、お持ち(アレルギーを)の方はご愁傷様です。今日は、なにかとお忙しい中ありがとうございます。50年のキャリアの中からステージ栄えのする歌を・・
    ~プレゼントタイム・メドレー~
    東京は恋する
    くちなしのバラード
    花咲く乙女たち
    友を送る歌
     
     
    イメージ 4「夢を育てた 青春の日よ」この歌詩を歌うならふつうは30代に入ってからなんでしょうけど・・この会館は昭和40年にできたそうです。ぼくが、20才ですから、22年前です。客席がザワザワと笑い声になるのをきいて・・ほっといて下さい!(笑)ちょうど、この頃は「東京は恋する」が出たあたりですね。多分「花咲く乙女たち」とかでエンディングしていたんでしょう。今こうして舞台を見てもたいへん立派な会館(当時としても)だったわけですよね。1月に開館して、その8月に「舟木一夫ショー」を1日3回やったんですが・・建て替えで閉館になって5年後は2000人のキャパシティで新しく開館だそうですが、5年後というとこっちの方が間に合わない(笑)48年前は1日3回、今はトシのせいで1日2回ですが・・
    ステージに残っている歌というのは作品に力があるんですね。単独でお聞かせするのはレコード・ドラマのアルバム・・全部やると42分以上かかるので、「テーマ」だけを・・

    イメージ 5その人は昔のテーマ
     
    昭和41年、松山善三さんという人の詩、というより台本ですね。宇野重吉さんにナレーションをやっていただいて・・美しい映画でしたね。いや、私のことじゃなくて(笑)当時の北海道は本当に美しい原野があった。
    今は、BSとか、あのなんていうんですか?お金がいるチャンネル(笑)日活映画を1年ぐらい流してくれるとか・・はずかしいったらありゃしない・・・昭和41年以降のデビューになるとかなり違ってくる、そういう意味でも幸せな時代にデビューして皆さんに出逢った。流行歌は時間が経って古くなっていかないのはかえって気持ち悪い。例えば、「およげたいやきくん」なんかは流行歌の部類には入らない。昭和の流行歌は素晴らしいと、昭和の時代に流行歌手になって良かったと・・カラオケが大流行りしたらプロの側がカラオケ向きで作ってしまうようになった。ここはカラオケで歌うと素人の人には難しいからこうしようと・・そうなると本末転倒になってしまう。ここで3曲並べたのは、20代前半に歌った時代の風景を切り取ったような歌。

      三曲ともマコちゃんとの共演で映画も大ヒット
     
    イメージ 6北国の街
    哀愁の夜
    高原のお嬢さん
     
     
    北国の街、高原のお嬢さんは当時の流行歌としては時代の先端のほうでしょう。真ん中の哀愁の夜は流行歌の王道でしょう。古くは「湯の町エレジー・・♪ルルルルル♪」バンドがないとヘタでしょ(笑)僕のデビュー前は「♪ルルルル♪・・赤いハンカチ」、デビューしてからは「♪ルルルルル♪・・霧にむせぶ夜」なんか、昭和の流行歌は分厚い。平成になってからの歌とは世界観が違いますよね。「夫婦なんとか」「なんとか海峡」「なんとか岬」・・とかの詩を見てると今、こういう世界ってあるのかって?・・男と女が煮詰まって、お金もないし、ふたりで手をつないで「あなたさえいれば 何もいらない・・」こんなのを今聴かされてもウソっぽい感じがして・・決してヒハンしてるんじゃなくてちょっとくい違いがあると・・・「日本の名曲」・・ひとつは古典・・荒城の月、花、船頭小唄、波浮の港など、ひとつは僕自身がリアルタイムで聴いてた流行歌。昭和25年以降、その頃から間に合っているわけですから、その頃から風がわかる。自分が歌えなかった歌に名曲が山ほどある。そんなところからかいつまんで、ちょっとここから先は、流行歌手になった楽しみを・・タイトルは申し上げるまでもない・・舟木さんのハミングで余分に三曲もオマケで聴けちゃいました。ラッキー!
                                 このダリアの名前は「大正浪漫」
     
    イメージ 7宵待草
    ゴンドラの唄
    浮世まかせ
     
     
    宵待草なんていうのは、簡単な言葉でいつの世も変わらない若い恋を思いっきり伝えてくれるわけですけれど、西條八十という人がこの歌(詩)をとっても好きで、ツーコーラス目を作った。さっきみたいなアレンジにすれば、こんな歌になるんですね。本当にいいところに目をつけてくださったと思います。宵待草もゴンドラの唄も、何しろ、言葉やメロディーに色気がありますよね。三つ目の浮世まかせ、これは、私が40周年に作った曲ですイメージ 8から・・・クシャクシャと手で丸めて、床にポイっと投げて足で踏みつける仕草をするテレ屋の舟木さんでした。流行歌の宝物の山の中で育ったんだから、私も、そろそろ楽しんで歌う・・・今年の12月がくると70ですから・・これも仕草で「70」と大きく書いてみるお茶目な舟木さん。宵待草のインストゥルメンタルの時のシルエットの舟木さんが美しすぎる!歌とビジュアルに微塵も齟齬がない完璧な宵待草という作品と歌い手の佇まいの合致、一体化に酔いしれたひとときです。
     
    「宵待草」については、その優美さと力強さのバランスの妙が今の舟木一夫ならではだと思いました。やはり若い頃の音源と聴き比べてみて、テクニック、人間力というものを舟木さんがこの50年の旅路でいかにしっかりと獲得なさったかを思い知ることができます。「ゴンドラの唄」は、今の時代に聴いても驚くほど大胆で解放的な詩であることにあらためて衝撃を受けています。堺の生んだ歌人・与謝野晶子の短歌にも通じる奔放さと熱。この時代の日本人のエネルギーや人間の根本に宿るエロスの世界を思い出させます。そして、これらの文芸作品には、いずれにも気品という揺るぎない精神性の高みがしっかりと内在されているのですから脱帽です。「ゴンドラの唄」ほど、大正という時代の光の強さと温かさを感じさせる旋律はないのではないかと舟木さんの歌唱を聴きながらずっと感じていました。「いのち短し 恋せよ乙女♪ あかき唇 あせぬ間に♪」今も耳に響く舟木さんのあたたかな声
     
    イメージ 14ここで、衣装替えです。ジャケットの右身ごろの裾の方をつまんでぷらぷらと揺らしながら、69(才)の男が着替えたところで・・・なんてもったいぶりながら、遊興費に使ってお金がないんで、上着だけ替えます(笑)・・遊興費ってパチンコ?(笑)・・ここから後半です。同じ風景を見て、同じニュースを聴いてきた同世代。ここで、思いっきりデビュー当時にジャンプして・・入口は50周年記念曲、当時の曲ぜんぶの受皿になる明日咲くつぼみにから・・
     
     
    イメージ 9明日咲くつぼみに イメージ 10
     
    あゝ青春の胸の血は
    君たちがいて僕がいた
    高校三年生
    学園広場
     
    歌い終わって・・こういう瞬間につくづく流行歌手になって良かったと思います。言葉は何にもいらない。歌を歌うだけでスコーンと青春時代に戻れる。30代、40代の時は子どもの歌と思えて離れたかった。でも、ここまできますとつくづく良かったと・・どうせ私は死ぬまで「高校三年生」なんだから(笑)
    イメージ 12イメージ 11この頃、お金で買えないものがあることがつくづくわかってきた「金が敵の世の中」でも、どうしたって金で買えないものがあると、例えばお客様、金で買うどころか、お金を払って聴きにきて下さってるのだから・・・
    昔は、子ども心にも食べものの四季っていうのがとても楽しみだった、とうもろこし・・夏だなぁ・・お正月にしか出てこないものとか・・そういう季節、季節のふくらみが昔はしっかりしていた。

    若い日の純な恋心・・・「初恋」から・・
     

     
    初恋
    夕笛
    吉野木挽唄~絶唱
     
     
    イメージ 15カーン、カーンという木を打つような音、シャンシャンという鈴音などの雄大な自然の風景に溶け込んだような懐かしい響きが効果的に組み込まれていて、映画「絶唱」で映し出された緑濃い山林の風景がひんやりとした空気感とともに目の前に広がりました。
    「吉野木挽唄」は終始、美しいうしろ姿のシルエットで歌いながらゆっくりとステップを上がる舟木さん。白いライトの光線が天上界から包み込むように降り注いで亡き小雪への鎮魂のようで、吉野杉の木漏れ日の映像を思い浮かべている私でした。そして、「絶唱」のイントロ・・・。くるりとこちら向きになって舟木さんのお顔がライトアップされまイメージ 16す。どんなアレンジでも「絶唱」のイントロが始まると胸が締め付けられるようですが、同時に順吉と小雪の無垢な魂の触れ合いと「永遠の愛、永遠のいのち」という厳粛さに心が洗われるのです。子どもの頃に感じていた、ただ、ただ悲しい歌ではない「絶唱」を今の、たっぷりと大らかな舟木さんの歌唱に見ることができます。

    イメージ 17「絶唱」という歌が背負った「光と影」のすべてを、舟木さんの今のステージで噛みしめる感動もまた相俟って私の中で、中学生の時に聴いた「絶唱」は、幾回りも、幾回りもスケールの大きな歌に成長しています。舟木さんご自身の歌い手としての旅路があり、そして私自身の心の成長も少し・・・そんなふうに同じ歌でも、心が柔らかく、純粋だった時代に強く心に沁みた歌は、どんどん育っていくものなんだという実感がしています。
    2014年の通常コンサートでラストに「吉野木挽唄~絶唱」をおいて下さったことに心からの感謝です。合掌
     
    イメージ 18アンコール
    ~君よ振りむくな
    スタンディング(サインボール)

     
    2014年上半期の通常コンサートの開催は三箇所。私は幸運にもそのすべてのステージを計6回楽しませていただくことができました。今回の堺市民会館は、当初は、昼だけ拝見する予定でしたが、最初の2月6日の大宮で、強い衝撃を受け、これはどうしても一回たりとも聴き逃せないと決めて、堺市民会館の夜のチケットも急遽購入しました。結果は「行けて良かった。感謝!」です。ステージの構成すべてが素晴らしかったのですが、私の好みではありますが、なんといっても「日本の名曲の古典」と「吉野木挽唄から絶唱」というこれまでステージでは聴くことができなかったアレンジや趣向のものを新鮮な想いで、また懐かしい想いで聴かせていただきました。

    以下、特に印象深く感動させていただいた曲についてあらためて私なりの感想です。
     
    舟友さんの動画です
     
    (いずれも1963年発売 4曲EP盤「真白き富士の根」に収録)
    手元にある過去に舟木さんが歌った「抒情歌」のジャンルの曲がまとめられている「舟木一夫 抒情曲を唄う」という普及版のCDの中にも収録されているのですが、やはり、今回のコンサートでこの2曲が大きな位置を占めていることを思えば、当時リリースされたオリジナル盤のアナログ音源のレコードで聴いてみたくなってタイミングよくオークションに出品されていた上記の4曲収録盤EPレコード「真白き富士の根」を手に入れました。あとの一曲は「琵琶湖周航の歌」です。発売が1963年ですから、舟木さんがデビューしたその年にすでにこれらの曲を吹き込んで歌っていらしたわけですが、クラシックの基礎を勉強なさっていたのですから、むしろ「流行歌」よりもこういったジャンルの歌の方が当時の舟木さんの声や歌唱にはムリがなかったのかも知れません。でも、今の舟木さんがステージで聴かせて下さると、「舟木歌謡」として独自の響きと趣が再構築されていて「歌謡歌曲」という新鮮な感覚で酔いしれます。若い頃のアルバム「東京の空の下で~その人は昔」や「雪のものがたり」などは「歌謡組曲」と冠されていますが、こういった曲調に代表されるように舟木さんは、歌曲の匂いを歌謡曲に、歌謡曲の匂いを歌曲にかぶせて、それぞれの音楽のジャンルを行き来することができる独特の幅広い世界をあの魅力的な声と佇まいで50余年の歌い手としての旅路の中で確立なさったのではないかと私には思えます。これこそが「唯一無二の舟木一夫の世界」だと断言できるのではないでしょうか。
     
     
    最後に、私のナンバーワンである「絶唱」について、しつっこく(笑)
     
    イメージ 20特に吉野木挽唄のアカペラから入るという完全版のスタイルで聴かせていただいた「絶唱」の持つ力というかオーラは、やはり他の歌にはない特別なものを感じました。舟木一夫という歌い手が「高校三年生」でデビューしなければファンとの出逢いはなかったことは揺るぎない事実ですが、私にとっては、たとえ「高校三年生」があったとしても「絶唱」がなければ、舟木一夫という歌い手と私との出逢いはなかったと思っています。「絶唱」にまつわる、舟木さんの複雑な想いも含めて、この歌はおそらく舟木さんにとっても特別な歌でイメージ 21はないかと思います。「絶唱」で獲得したもの、また失ったもの・・・まさに舟木一夫の歌い手としての旅路の「光と影」「栄光と挫折」の象徴のような「絶唱」を、これほど見事に浄化させて珠玉の作品に育て上げた舟木さんの魂の力強さや歌い手としての矜持に深い敬意と驚きを感じています。「絶唱」との闘いは、決して短いものでも浅いものでもなかったのではないかと思いますが、今の舟木さんは、まぎれもなくその闘いに打ち勝ったのですね。このコンサートのラストシーンで高らかに「絶唱」を謳いあげる舟木さんに歌い手としての魂の崇高な美しさを見ました。
     
    以下は、再掲載になりますが「歌手生活30周年記念 舟木一夫大全集 陽射し・旅人 10枚組CD」の歌詩集冊子に掲載されている舟木さんご自身による「舟木一夫 思い出の曲 寄稿集」から「絶唱」の項をご紹介します。
     
     
    以前にも拙ブログで掲載しているものの再掲載です。舟木さんの偽らざるお気持ちがよく現れた文面です。
     
    イメージ 22~これは、珍しいケースで、映画の企画が先でした。この企画は日活に僕が持ち込んだのですけれど、日活側としては、こんなに内容の暗いものではダメだと言われてしまいましたが、僕としては、どうしてもやってみたかった。だから、4ヵ月かけて日活側を説得しました。ところが今度は主題歌がなかなかできませんでした。最悪は主題歌無しでやろうかと半分あきらめていたのですが、映画のアップ、ギリギリに作品が出来上がってきました。そいういった事で、この「絶唱」に関しては、映画化、レコード化、共に難産したおぼえがあります。そして、レコーディングに入って歌った時、「これはヒットするな」と直感しました。実はこの曲は、最初3コーラスしかなかった作品なのですが、聴いていてどうも物足りないと感じ、カラオケのテープを編集して、3ハーフに長くしたものなんです。それと、一番「まいったなぁ」と思った事は、レコード大賞の歌唱賞をこの作品でもらってしまった事でした。しばらくの間、気分が落ち込みました。なぜなら、歌唱賞は「歌がうまいからこの賞を与える」という賞なわけです。しかし、当時自分の回りを見まわすと、歌のうまい先輩がたくさんいました。その先輩を差し置いて、自分がこの賞を与えられたということで、歌の対してのプレッシャーが、ものすごく重く自分にのしかかってきました。賞に恥じないように歌おうと思う気持ちが、逆に歌をうまくまとめて歌ってしまう形になり、しばらくの間、歌がグチャグチャになってしまいました。ですからこの曲はヒットしてよかったという気持ちと、自分の歌がくずれ始めたキカッケになった作品ということで、当時大変複雑な気持ちだったことが思い出されます~

     
    もうひとつ、最近読んで、舟木さんはこういうイメージトレーニングをして歌に臨んでいらっしゃるのか!と
    感嘆するやら、得心するやらしたのでご紹介します。
     
    イメージ 23月間カラオケONGAKU 2005年6月号の「赤詰コンサート」の時期の巻頭インタビューより抜粋。
    小見出しは「歌い手の”つもり”は必要。押しつけじゃなくてね」
    ~気持ちの置き場所として、「絶唱」はドーム状に上から降り注いでいく。サイドからの「哀愁の夜」なんかは上が空いててもいい。風景で言えば星空が見えていても構わない。雨が落ちてきても。ただ「絶唱」の場合は、上からくるむ歌だから、星が見えるとしても、透明の天井がなければいけない。という事だよね。あくまでも”つもり”だけどさ。唄う時には必要なケースが多いよ。~中略~「絶唱」というのは悲しい歌だけど、お客様に涙を流して貰えば正解なのかと?というと、そんな単純な話ではない訳で。むしろ、あったかい気持ちになって貰えるように唄う方が、遥かに「絶唱」らしいという言い方もあるよね。今年の(2005年当時)ツアーでいえば、なぜあのアレンジにしているか。それは「絶唱」の大きさを味わっていただきましょうと。だから悲しいとか・・それは聴いて下さる人それぞれのもので。いろんな思いがあって当たり前だし。ただこちらのつもりとしては、コマゴマとした事じゃなくて。ただ、デカさをね、出していきたいなという話で~
     
     
    他にも「恋唄」の”つもり”などについてもおっしゃっていました。それはまたの機会に・・
     
    蛇足・・・プチ「舟木さんを探すさんぽ径」です。与謝野晶子の文学散歩をしていたら、見つけました。晶子の第十六歌集のタイトルが「火の鳥」でした。(大正八年発刊 装丁・挿絵:中沢弘光)
     
    火の鳥   舟木一夫:作詩・作曲   (1975年1月発売ライブ盤「ゴールデンコンサート」収録曲)
    イメージ 1 
    ふるえる心に つばさを広げて
    明日にはばたく 不死身の火の鳥
    燃える瞳に 愛をかざして あなたと生きる
    おそれるものは何もない 何もない
    はるかに聞こえる夜明けの歌声
    目指して旅立つ希望の世界へ
     
    イメージ 2恋する心に つばさを広げて
    明日にはばたく 不死身の火の鳥
    つきることない 炎の海に 身体をまかせ
    微笑みかわす愛の中 愛の中
    あなたに見つけた たしかな真心
    はげしく抱きしめ 飛び立つ大空
     
    誰もじゃまなど できはしないさ 二人の胸に 
    永遠に寄りそう 火の鳥を 火の鳥を
     
    嵐に傷つき つばさは 折れても
    終わりを 知らない 不死身のこの愛

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    1997(平成9年) NHK大河ドラマ「毛利元就」
    原作:永井路子(「山霧」「元就、そして女たち」より) 脚本:内館牧子
     
    イメージ 1
    ウィキペディアで「毛利元就」の登場人物の項を見ると以下のように書かれています。
    沼田小早川氏家臣・椋梨景勝(むくなしかげかつ)
    当主繁平に絶対の忠誠を誓う。小早川家の行く末を案じて隆景を擁立、抵抗する全慶らを討った。
     
    舟木さんが出演された、大河ドラマは四本。昭和39年「赤穂浪士」の矢頭右衛門七、昭和41年「源義経」の平敦盛、昭和46年「春の坂道」の徳川忠長・・・この三本では、舟木さんは、いずれも悲壮な運命の若者を演じられました。そして、四本目の出演となる「毛利元就」は、初めて実在の人物ではなく架空の人物を演じられたそうです。そして、危うく「切腹か?」という展開ではありましたが、大どんでん返しの「出家」という形でなんとか「死を免れ」てほっとしました(笑)
    イメージ 2・・と言っても、私はこの「毛利元就」も、「春の坂道」(http://blogs.yahoo.co.jp/ycmay26/69115251.html   ←ご参照下さい)
    同様、まったくかすりもせずにおりましたので、これも、舟友さんのご厚意で、つい先ごろ録画されたものを拝見した次第です。
    舟木さんから長く離れていた私が、こうしてブログ上で、リアルタイムで見ることもできず、関連する資料すら手元にない中で、私なりの記事にすることができるのは、今回も、舟友さんのご親切とご厚意のおかげです。録画資料をご提供下さった舟友さん、また、この「毛利元就」撮影中の舟木さんに関するエピソードの資料をご提供下さった舟友さん、おふたかたへ先ずは、心からの感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。
    イメージ 13私が、拝見したのは、舟木さんが出演されている回のみなので、ここで架空の人物として舟木さんが起用されている根拠というか、舟木さんでなければならなかった椋梨景勝という人物。そしてまた実在の人物である小早川繁平とのかかわりについてに絞って「大河ドラマ・毛利元就」について私なりに掲載させていただきます。
    出演されたのは、第29、第31回、第33回、第36回のようです。以下は私がネットで調べたものですが、各回のおおまかなストーリーのまとめです。
     
     
    イメージ 32第29回 子別れ
    1544年(天文13年)
    尼子晴久、経久以来の家臣・亀井秀綱(河原さぶ)に隠居を申し渡す。
    新宮党、安芸三吉を攻撃。
    元就は児玉就忠を大将に援軍を出す(が、大敗。が、三吉は新宮党に勝利)。
    徳寿丸、井上春忠(生瀬勝久)を伴って小早川(の分家)の養子となる。

    第31回 杉、極楽へ行く
    1546年(天文15年)
    元就、隆元に家督を譲る。
    大内義隆と、その正室の侍女との間に嫡男・亀童丸誕生。
    杉の方、堀立直正との天竺行きを前に急死。 

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    第33回 冴えわたる策略
    1547年(天文16年)
    吉川興経、家臣の横領に連座したことで子の千法師とともに強制的に隠居させられる。
    吉川は元春を養子に迎え入れる。
    徳寿丸、元服して小早川隆景(恵俊彰)を名乗る。
    井上元兼、横領のかどで隠居を申し渡される。

    1548年(天文17年)
    元春に長男誕生。

     
     
    第36回 鬼のかけひき
    1550年(天文19年)
    元就、隠居先から逃亡のかどで吉川興経一族を根絶やしにする。
    小早川本家家臣・椋梨景勝(舟木一夫)、家内の不平一派を粛正。
    小早川当主繁平隠居。
    隆景は繁平の妹・阿古姫(三船美佳)と結婚することで小早川本家の当主となる。
    陶隆房、大内義隆に見切りを付けて若山城にこもる。

     
    ドラマでは、舟木さん演じる椋梨景勝が忠誠を尽くしたことになっている小早川繁平について先にご紹介しておきます。
     
    イメージ 24小早川繁平:天文11年(1542年)、小早川正平の長男として生まれる。
    天文12年(1543年)、父・正平が大内義隆の出雲の尼子氏遠征(月山富田城の戦い)に参加し、大敗を喫して撤退するときに戦死したため、僅か2歳で家督を継いだ。しかし幼少のために政務を執れず、また病弱であった。このため、天文12年(1543年)から天文13年(1544年)にかけて尼子晴久の侵攻を受けるが、家臣団が結束して籠城し、これを撃退した。ところが、繁平は天文13年には病気のために盲目となったため(実は盲目ではなかったという説もある)家中の動揺を招いた。大内義隆は、病弱かつ盲目である繁平では尼子氏の侵攻を防ぐことはできないと判断。天文19年(1550年)、義隆と毛利元就が介入し、繁平が尼子氏と内通したとして、居城の高山城から追放してその身柄を拘禁した。これに反対する家臣・田坂全慶らは誅殺された。そして義隆は既に竹原小早川氏を継いでいた元就の3男・小早川隆景を繁平の妹と結婚させた上で、天文20年(1551年)に沼田小早川氏の家督を継がせた。こうして両小早川家は再統一されたが、2人の間には子供ができなかったため、桓武平氏流小早川本家の血筋は途絶えることになった。その後、繁平は毛利元就の計らいにより、剃髪して禅に帰依し、教真寺に入って余生を過ごした。天正2年(1574年)、33歳で死去。
     
    イメージ 34繁平は実在の人物ですので、史実としては上記のような資料となっていますが、椋梨景勝という架空の人物を繁平の側近として配することで、謀略と懐疑心の渦巻く殺伐とした戦国の世にあっても、「人が人を信じる」という希望や理想などを描きたいという制作者側の意図があったのだと思われます。そして、誰あろう舟木さんが、そういった役どころを得て見事に、制作者側の意図に応えられたことは、今さらながらですが本当に嬉しく的を射たキャスティングだったのだと、録画を観ながら拍手喝采を贈りたい気分でした。

    イメージ 35本家沼田小早川家の重臣、椋梨景勝は、全身全霊で、忠義を尽くして守っている繁平の平穏を願い、小早川家の盤石を築くために、元就の三男小早川隆景(分家の竹原の養子)を当主にしようと考えていた。そのため、隆景に好意を抱いている繁平の妹の阿古姫と隆景との縁組を毛利家にもちかける。
    毛利家当主の隆元は承知しようとするが、大殿の元就は小早川家の家臣団が一致して隆景を当主にするならいいが、反対者がいるな
     
    イメージ 36ら断ると釘を刺す。反対派は粛清しろという元就の無言の圧力であった。景勝は、元就の冷徹な策謀を見抜き、一瞬たじろいだ表情を見せるが、小早川家の安泰を毛利家に託すしかないと、苦渋の決断をする。
     
     
     
     
     
     
     
    イメージ 37小早川本家での評定場面。隆景を当主にという自分の考えを述べる景勝。そして、反対派は三人であることを確認すると、静かに立ち上がり、傍らの刀掛けから刀を取るや否や一瞬で三人を粛清した。この時の舟木さんの立ち居振る舞いと、太刀さばきの素晴らしさは、放映当時、大変な評判になったようです。
     
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    隆景が当主になることによって繁平は出家。椋梨景勝はこの時、自身の処置については、当主となった隆景に一任。勿論、家中を騒がせた責めは負う所存であると「切腹」も覚悟の上の英断でした。場面は変わって、介錯人が景勝の背後で長刀を構えて待っており、景勝の前には三宝に載った短刀が置かれています。アップになる短刀。鞘から抜いた短刀は・・・予期せぬことに驚く景勝の表情。介錯人の長刀は、空を斬って・・・
     
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    己を犠牲にして繁平を守り、また小早川家の安泰を隆景に託した景勝の忠誠心が、隆景の心を動かしたのか・・・
    「毛利元就」という人物は、冷徹無比なる戦国武将として知られているようです。お茶の間で家族が観る番組というイメージの強いNHK大河ドラマですから、あまりに生々しい戦国の世の陰惨な面のみばかりを描くことはできませんから、こうしたほっと一息つけるような人間の良心の存在を残した場面は不可欠なのでしょう。前述していますが、重ねて、舟木さんがその「人間の良心」の部分を引きだすような役どころである椋梨景勝という人物を演じ、戦国の世のひとすじの光の部分を「毛利元就」というドラマの中で一手に引き受けた印象を強く受けました。
     
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    矢頭右衛門七も敦盛も、忠長も、当時の舟木さんならではの役だと思っていたのですが、25年という旅路を経ての大河ドラマで演じられた椋梨景勝もまた、舟木さんでなくては見せることができない潔さと強さと何よりも優しいまなざしが宿る実のある戦国武将であると思いました。ドラマでは、景勝は、この後もずっと繁平とともに生きていくこイメージ 20とになります。しかし、繁平は、景勝の想いを既にしっかりと受け止めていました。もう昔の繁平ではなくなっていました。映像では、それまでは、いつも景勝の袖をつかんで離すことのできなかった繁平でしたが景勝とともに隆景の前で景勝が「切腹」も覚悟であると申し出たときには「一人でも生きていける。もう椋梨の袖は、つかんではいないぞ」とけなげに言い放ちます。その言葉を聴いた景勝は、天を仰ぐように顔を上に向けイメージ 21ます。そしてそのまま顔を覆って男泣きに泣くのです。この時の景勝は、舟木さんそのもののように思えました・・演技ではなくご自身の想いをそのまま表現なさっているようだと私には思えました。景勝の優しさが繁平を甘やかしているかのように見えた視聴者もいたかもしれないと思いますが、優しさとは強さと真心に裏うちされた自己に厳しい者だけが持てるものだということを景勝は繁平に伝えきることができたのではないかという感動でした。
     
     
    舟木さんが演じられた椋梨景勝という武将は戦国の世に在って、稀有な人物であったことは、リアルタイムでこのドラマをご覧になっていらした方は、どなたも感じられたことだろうと思います。私は、ご提供いただいた4回分の録画映像のみからでしか推し量ることしかできないのですが、当時の感想など、書かれたブログなどないかとネットで調べていたところ、とても「いい感じ」の資料にゆきあたりましたのでご紹介させていただきます。このドラマの放映から17年も経過していますので、転載させていただくサイト名が、今ではわからなくなっていて、この項の部分のみを見ることができる状態のようです。ブログ名かどうかわからないのですが「Risky*Drop」という記載がありますので、ご案内しておきます。
     
    以下、ネット上の「椋梨景勝」について、舟木さんが演じられた椋梨景勝のイメージを端的に表現なさっている文章です。実際にテレビ放映の中でこのような場面があったのかどうか、御存知の方がいらしたらお教え下さい。
     
    イメージ 22生まれたときから、世界は闇だった。
    なにも見えない。なにもわからない。空の色も、花の色も、鳥の姿も。家族の顔も。そして、なによりも、いつも自分の傍らにいてくれる椋梨景勝の顔も……。
     
    小早川繁平にとって、椋梨の存在は総てだった。
    繁平は、なにもかもを椋梨から教わった。物の形、動き、流れ……そして、「色」。
    暗黒の世界にいても、繁平が寂しさも不安も感じずにいられたのは、椋梨がいつも傍らにいてくれたからだ。椋梨がいてくれれば、繁平は家族もいらないと思ってさえいた。
    どうせ、目が見えないことで、繁平を廃嫡扱いするような家族だ。
    もっとも、繁平には家督になんの執着もない。こんな戦乱の時代に、家を継ぐのは厄介なことが多過ぎる。繁平は厄介なことも、争いごとも嫌いだった。
    「鶯が啼いておりますな」
    椋梨にそう言われて、繁平は頭を巡らせた。庭の方に顔を向けてはみたが、もちろんなにも見えはしない。頬を撫でる風がほんのりと温もって、春の訪れを教えてくれただけだ。
    イメージ 23それでも、椋梨は繁平に「見えるもの」を語る。桜が咲いた。桜が散った。鳥が庭に来ている。空が晴れて、澄んだ青をしている。雪が降っている……繁平は、椋梨の口から季節の流れを知った。
    椋梨は、繁平が「見えていない」からと、手を抜かない。いい加減なことはしない。蔑んだりもしない。毛利家からの養子を受け入れ、廃嫡扱いにされた繁平になどくっ付いて、尽くしたところでなんの得にもならないはずなのに。
    椋梨は繁平の傍らにいる。私利も私欲もないのだろうか。押し退けてでも這い上がろうとは思わないのだろうか。だが、繁平はそんな椋梨が好きだった。
    「お庭の松の木に……右から、三本目の、松の木でござります」
    椋梨は、「見えない」繁平にもわかるように、細かく説明する。それで、繁平は「見えた」ような気分になれる
    。庭がどうなっていて、どこに松の木があるかなど、よくはわかっていないのだが。椋梨の言葉で作り上げた自分だけの庭の映像がある。それがちゃんと「見えて」いる。
    「傍まで参りましょうか?」
    「傍まで?」
    「さ、参りましょう」
    椋梨は繁平の手を取った。
    イメージ 25「この木にござります」
    繁平は、椋梨の袖を握りしめたまま、ゆったりと庭を歩いた。新緑の生々しい春の匂いが、鼻腔を満たした。椋梨は、繁平の細い手を取り、松の木の幹に触れさせた。がさがさと毛羽立った渇いた手触りだった。これが松の木………。
    ああ、そうだ。見えなくても、世界が闇のままでも、手で触れれば「見える」。手で触れられる範囲のものなら「見る」ことが出来る。遠いものは無理でも。近くのものなら。
    そう。椋梨の顔なら……。
    「この、上の方……」
    繁平は、言いかけた椋梨の袖を引いた。
    イメージ 26「繁平殿?」
    「椋梨。頼みがある」
    「は? なんでござりましょう?」
    「儂はそちの顔が知りたい」
    「顔、にござりますか?」
    椋梨の声が怪訝そうな色を帯びた。当然だろう。繁平は「見えない」のだから。「見えない」のに、顔を知りたいなどと言われたら、訝しく思うのは当たり前だ。
    「椋梨の顔など…」
    「知りたい」
    強く言い放ち、繁平は、椋梨の頬に触れた。椋梨の身体が微かに揺れたような気がした。
    繁平は滑るように椋梨の顔を確かめた。その間中、椋梨は身動ぎひとつせず、されるがままになっていた。
    「……かような顔をしておったのだな」
    「つまらぬ顔でござりましょう?」
    椋梨は微かに笑いを含ませた口調になった。
    「つまらなくはない。つまらぬことはないぞ。椋梨。儂は、好きじゃ」
    繁平は、椋梨の首に縋りついた。
    やっとわかった。知ることが出来た。椋梨の顔を。美醜の判断はつけられない。が、繁平はたまらなく好きだと思った。
    「繁平殿?」
    たっぷりと春を含んだ風が頬を撫で過ぎた。

     
    イメージ 27そして、最後に、もうひとつ、これは椋梨景勝ではなく、舟木さんご本人の素晴らしさを物語るようなエピソードを舟友さんからご提供いただきましたので、併せてご紹介します。
    小早川隆景を演じた恵俊彰さんが、井上春忠を演じていた生瀬勝久さんのことを書かれた文章の中に舟木さんが登場なさっています。とっても舟木さんらしいと納得できる出来ごとが撮影中にあったのですね。ファンとしては本当に嬉しく、やっぱり舟木さんってどこにいらしてもどんな場面でもカッコいいんだとこちらの鼻が伸びてしまいます(笑)
     
    前略~こんな事件があった。NHKの大河ドラマ「毛利元就」で初めて生瀬さんと共演した時のことだ。確か軍議のシーンで何十人という役者さんがでていた。その中のある役者が台詞が言えなくなってしまったのだ。カメリハ、ランスルー、何回やってもちゃんと台詞が言えない。役者の皆さんにも妙な空気が流れ始めた。激しい軍議のシーンがある意味し~んとしてしまったのだ。生瀬さんは私のと隣に座っていた。そのシーンでは私も生瀬さんも台詞がない。それまで生瀬さんと喋った事はほとんどなかったが、私はしょうがなく何度か生瀬さんのほうを見た。生瀬さんは目を閉じてただじっと正座したままだ。再びリハーサルが始まったが、やはり同じであった。ついに、演出家が怒鳴ってスタジオに駆け込んで来て、問題の役者の前に座って「なにやってるんだ」ぼやぼやしてないで速く台詞を覚えろ!」と怒鳴りまくった。びくっとして生瀬さんのほうを見たら、生瀬さんはぴくりともせず、目を閉じて正座している。かっこいい。なんて気持ちの座った人だと思って感心した。その時だ。やはりそのシーンに出演していた舟木一夫さんが立ち上がってその現場にいた全員にこうイメージ 28言った「役者さん、照明さん、技術さん、演出の皆さん、僕に十分だけ時間をください。」そしてその問題の役者さんの前に座って、「台詞が言えなくなるのは、皆同じだ。さあ、この十分の間に何処かに行って一人で台詞を覚えてきなさい。」とこう言ったのだ。これまたかっこいい。すると今度はフロアーさんがこう言った。「十分間休憩です。」何とかその場がおさまった。すごい現場だなと感心していたら生瀬さんが話しかけてきた。「一本いきません。」二人でタバコを吸いにスタジオを出た。生瀬さんはまだ真イメージ 29顔だ。タバコに火がつき一服して口から煙が出てくるのとほぼ同時に、「いや~、びっくりしましたね。どうなることかと思いましたよ。今日は台詞がなくてよかったな、かっこいいですね、舟木さん。」鼻から煙が出ていた。そして気持ち笑顔だった。ある意味完全にお客さんになっていた。その時この人とは友達になれると思った。心の中では私と同じようにどきどきしているのに顔には全く出ない。むしろ、堂々として見える。役者だ、そうだ生瀬さんは普段から役者なのだ。~後略
     
    小早川隆景(元就の三男):恵俊彰さん
    井上春忠(小早川家家臣):生瀬勝久さん
     
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