9月17日は歌人若山牧水が亡くなった日です。1928年(昭和3年)没
牧水忌は季語~「季寄せ」(角川書店)~となっています。
牧水忌は季語~「季寄せ」(角川書店)~となっています。
牧水忌もの知りそめし風のころ 豊田都峰
舟木さんのLPアルバム「ひとりぽっち2集 舟木一夫の思い出の歌」と「ひとりぽっち 舟木一夫魅力のすべて2」に収録されています。舟木さんがコンサートで涙して歌われているのは牧水の歌に込められた以下のような想いに深く感ずるところがあるからなのではないでしょうか・・・
~私は常に思っている。人生は旅である。我等は忽然として無窮より生まれ、忽然として無窮のおくに往ってしまう。その間の一歩一歩の歩みは、実にその時の一歩々々で、一度往いては再びかえらない。私は私の歌をもって、私の旅のその一歩々々のひびきであると思いなしている。言いかえれば、私の歌はその時々の、私の命の砕片である。 ~
(若山牧水 第二歌集「独り歌へる」自序より)
(若山牧水 第二歌集「独り歌へる」自序より)
「白鳥の歌」は、若山牧水の短歌の中でもひろくに知られたもの三作が古関裕而氏の作曲で歌曲となっており、昭和22年のラジオドラマ「音楽五人男」の中で歌われたものだそうです。(藤山一郎・松田トシ歌唱)
舟木さんの歌唱ではないのですがメロディーラインはこちらで↓
白鳥は悲しからずや
空の青 うみのあをにも
染まずただよふ
空の青 うみのあをにも
染まずただよふ
幾山河越え去りゆかば
さびしさのはてなむ国ぞ
きょうも旅ゆく
さびしさのはてなむ国ぞ
きょうも旅ゆく
いざゆかむ 行きてまだ見ぬ
山を見む このさびしさに
君は耐うるや
山を見む このさびしさに
君は耐うるや
白鳥は・・・の解説
群青の空の色にも染まらず、また紺碧の海の色にも染まらないで、ただひとり純白な姿を波の上に浮かべている白鳥の、なんといとしく愛らしく、せつないまでに悲しいことよ。世に交わることもなく、ひとり清純の魂をはばたかせている自らは、とりもなおさず、白鳥である。
群青の空の色にも染まらず、また紺碧の海の色にも染まらないで、ただひとり純白な姿を波の上に浮かべている白鳥の、なんといとしく愛らしく、せつないまでに悲しいことよ。世に交わることもなく、ひとり清純の魂をはばたかせている自らは、とりもなおさず、白鳥である。
幾山河・・・の解説
どれだけ多くの山や河を越えれば、寂しさのない国に行けるのだろうか、いやそんなものがないことは承知しているが、今日もあらたに旅をして行こう
いざゆかむ・・・の解説
人妻園田小枝子に宛てた手紙に書かれた恋歌である。
さあ行こう。行ってまだ見たことのない山を見よう。この寂しさにあなたは耐えられるだろうか。さらに意訳すると、「一緒に生きよう。僕とともに生きる未知の人生は寂しいものだが、あなたは耐えられるだろうか?」
さあ行こう。行ってまだ見たことのない山を見よう。この寂しさにあなたは耐えられるだろうか。さらに意訳すると、「一緒に生きよう。僕とともに生きる未知の人生は寂しいものだが、あなたは耐えられるだろうか?」
宮崎県東臼杵郡東郷村(現・日向市)の医師・若山立蔵の長男として生まれる。1899年(明治32年)宮崎県立延岡中学校に入学。短歌と俳句を始める。18歳のとき、号を牧水とする。
1904年(明治37年)早稲田大学文学科に入学。同級生の北原射水(後の白秋)、中林蘇水と親交を厚くし、「早稲田の三水」と呼ばれる。 1908年(明治41年)早稲田大学英文学科卒業。7月に処女歌集『海の声』出版。翌1909年(明治42年)中央新聞社に入社。5ヶ月後に退社。
1911年(明治44年)創作社を興し、詩歌雑誌「創作」を主宰する。この年、歌人・太田水穂を頼って長野より上京していた後に妻となる太田喜志子と水穂宅にて知り合う。1912年(明治45年)友人であった石川啄木の臨終に立ち合う。同年、喜志子と結婚。1913年(大正2年)長男・旅人(たびと)誕生。その後、2女1男をもうける。
1920年(大正9年)沼津の自然を愛し、特に千本松原の景観に魅せられて、一家をあげて沼津に移住する。大正11年10月、御代田駅より岩村田へ向かい、佐久ホテルに逗留し、数々の作品を残す。1926年(大正15年)詩歌総合雑誌「詩歌時代」を創刊。この年、静岡県が計画した千本松原伐採に対し、新聞に計画反対を寄稿するなど運動の先頭に立ち、計画を断念させる。1927年(昭和2年)妻と共に朝鮮揮毫旅行に出発し、約2ヶ月間にわたって珍島や金剛山などを巡るが、体調を崩し帰国する。翌1928年夏頃より病臥し、自宅で死去する。享年43。沼津の千本山乗運寺に埋葬される。戒名は古松院仙誉牧水居士。